呉服屋王子と練り切り姫
 鶴亀総本家のテナントは既に消灯していて、ポツンと厨房の明かりが点いているだけだった。

「ただいまもどりました~」

 そうっと厨房の扉を開けて顔を出すと、そこにいたのは将太君だけだった。練り切り餡の飾りを、真剣にピンセットでつまんでいた。邪魔したら悪いとそうっと扉を閉めようとしたとき、不意にこちらを振り向いた彼と目があった。

「あ、愛果さんお帰りなさい。大変だったみたいっすね~」

 いつもの軽い調子で笑みを浮かべてくれた彼に、どっと安堵の波が押し寄せる。

「ちょ、どうしたんっすか! 愛果さん!」

 私はその場にへなへなと座り込んでいた。心配した将太君が、私の元に駆け寄ってくる。

「そんなに大変だったんすね……俺、無神経なこと言って……」
「ううん、いいの。安心しただけだから……」

 そう言いながら、将太君がぎょっとしたから、私は慌てて袖で顔を拭った。いつから流れていたのか、涙で袖がぐっしょりと濡れた。

「疲れたときは、甘いものっすよ!」

 将太君はそう言って、私の口に手に持っていた作りかけの練り切りを押し込んだ。

「んんぐ!」
「あ、気にしないでください! これ、試作品っすから!さ、着替えて帰りましょ。お疲れっした~」

 将太君は私の横をすり抜けて男子用ロッカーに消えて行った。私は涙を拭いながら、口に詰め込まれた高級菓子をもぐもぐと味わった。
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