呉服屋王子と練り切り姫
 伊万里様とゲーン夫妻は談笑しながら社長室を出て行った。将太君はひっくひっくと喉を鳴らしながら、テーブルの上を片すのを手伝ってくれていた。

「将太君、ありがとう」

 いまだに涙声の将太君に声をかけると、将太君は呟いた。

「これからまだコンテストがあるってのに、こんなんで泣いてたらダメっすよね」

 将太君は「仕事に戻ります」と帰っていった。取り残された私は、甚八さんをちらりと見やる。甚八さんは入り口付近の壁に凭れて、腕を組んでいた。

「終わったなら、帰るぞ」

 その声に、嬉しさがこみ上げる。甚八さんは、私を待っていてくれた。私の帰る場所は、甚八さんでいいんだ。

「はい」

 私が返事をすると、陽臣さんに制された。

「待ってくれ、キミは、甚八のニセモノじゃなかったのか?」

 その声にはっとする。私は、やっぱり……

「兄さん、悪いな。こいつは、俺んだ」
「え、でも、甚八には俺の知恵を借りたいほどの相手が……」

 陽臣さんはちらりと私を見ると、やっと納得したと言うように笑った。

「そういうことだ」

 甚八さんはそう言うと、さっと私の右手をとった。

「彼女の手は、離したらいけないんだろう?」

 そう言って私の顔を覗く甚八さんの瞳は、メガネの向こう側で、今まで見た中で一番優しい色をしていた。
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