極上の餌
スッと真っ直ぐに手が上がった。
最前列の、ベージュのセーターの袖口から白く細い若い素肌。
彼女が……。
あの子が挙手している。
吉田とステージの俺、そして、隣席の老婦人が驚愕した。
「は……、はい、どうぞ」
言った手前、それでも吉田は冷静にその場を取り仕切る。
最前列、ということもあり、自らステージから降りてワイヤレスのマイクを口元へ差し出すと、彼女はすっくと椅子から立ち上がる。
「広橋先生にお伺いします」
その声は澄んだ水音のように清く、マイクからスピーカーを通して空気と俺の心を振動させた。
「あ、はい」
ようやく壇上から堂々と彼女に体ごと向けて見つめることができる、と喜ぶよりも、驚きが大きくて俺はテーブルに置いていたマイクを慌てて手に取る。
「先生は、ご自身が幸せな時に不幸なお話を、逆に、ご自身が不幸な時に幸せなお話を書くことはできますか?」
トークショーの最中と変わらず、大きな瞳は俺一人を真っ直ぐに見詰め、照明は当たっていないのに彼女の周りだけが眩しく見える。
そして、その質問もまた、無駄のない端的な内容だった。
好きな女性のタイプ、なんて作家に聞かずともいいような質問ではなく、作家だから、物語を無から作り出す者にだから訊ねる、的を得た質問だ。
会場も、吉田も、そして突如立ち上がって質問をぶつけた隣席の娘を見上げる老婦人、誰もが俺の回答をしんと静まり返って待った。
「あ、ええっと、そうですね……」
先ほど、自分の好みのど真ん中です、と告白したような恰好をした彼女を目の前にして。
「そうですね……」
様々な景色が頭に浮かぶ。
父を亡くしてすぐに俺が書いたシーンは江戸の花火大会の情景だった。
父の原稿は、不幸続きだった長編シリーズ主人公の剣客が、ようやく家族を持ち、恵まれた幼子と三人、連れ立って花火大会に出掛けよう、という場面で止まっていた。
江戸の……、東京の花火大会には幼い頃、俺も家族で見物した。
時代小説を書くだけあって普段から和装を好んでいた父が、幼い俺に揃いの浴衣を着せ河川敷まで下駄を鳴らして出かけた。
江戸時代の花火と現代の花火は違う。
参考資料を集める手伝いもしていた俺は、常識としてふたつの花火大会の景色がまるで違うものとは理解している。
だが、そこに集う人々の感情に江戸も現代も違いはない。
亡くした痛みや、父の物語を引き継ぐ不安をしばし忘れて、幸せな家族像を俺はその剣客の家族に綴った。