極上の餌
コンコンコン
トークショーを終え、一昨日から新刊執筆中の出版社に用意された、同じベリーヒルズビレッジのホテルの一室……、作家を閉じ込める「缶詰部屋」に戻って数分後、その部屋のドアをノックする音がした。
「どうぞぉ」
普通に返事をするつもりが、トークショーでの喋りで思いの外喉が渇いていたのか、それとも緊張なのか、裏返ってしまった。
かっこわる……。
内心苦笑しながら、でも、ここからが正念場。気合を入れる。
「広橋先生、お客様をお連れしました」
ドアの外にはホテルスタッフの男性と黒タイツの彼女。
男性は先ほどのトークショーでは主催の新聞社の人と共に案内係として会場に控えていた人だ。
顔見知りだったのが幸いして、ステージから降りるとすぐに彼に「あの子」を連れてくるよう依頼した。
「ありがとう。お手間お掛けしました」
「いえ」
ホテルマンらしく顔には出してないが、俺の顔を見ても一言も発しない彼女と俺の関係を訝しく思っているだろうとは簡単に想像がつく。
『作家、広橋文也がファンに手ぇ出してるぞぉ!』
と心の中では叫んでいるに違いない。
「先生、後ほどS新聞社の方がご挨拶に伺いたいとの事でしたが」
「ええ、構いませんよ。いつでもどうぞ。どうせ俺は今からここに缶詰めなんだから」
「分かりました。お伝え致します」
ホテルマンはホテルマンらしく実にスマートに、女性を部屋に連れ込もうとしている常客への牽制をする。
ここで彼女が入室を拒んだり、さらには大声を上げようものなら、俺は社会的に抹殺されるかもしれない。
時代小説を書いていたって、今はそういう時代だと理解している。
それでも、彼女をここへ呼んだ。
もう離さないために。
「どうぞ……」
ホテルマンの後ろの彼女に入室を促す。
彼女の目は、最前列に座っていた時と同様、じっと俺を見ている。
まるで野生の小動物が、コイツは敵か味方か全神経で判断をするように。
そうだ。
彼女はそういう子だ。
周りに影響されない。
自分自身で判断する。
判断する材料を探し出す目と心を持っている。
だから惹かれた。
もう一度、彼女を欲する想いを言葉に乗せる。
「さっきは勇気を出して質問してくれてありがとう」
彼女の警戒レベルは高いまま。
「7年前の父の講演会でも、一番前の席に座っていたよね」
彼女の瞳が大きく見開く。
そう、その時から何年も君を探していた。
「きみとゆっくり話しがしたい……。どうかな?」
警戒レベルが肩のこわばりと同じく少しだけ下がったように見える。
「どうぞ……」
羽織の袖がふわりと揺れるのに呼応するように、彼女はコクンと頷いた。
ドアを開けるホテルマンの前を横切り、小さく、
「失礼します」
と発して入室した。