極上の餌
「驚かせたよね、ごめん」
ホテルマンがドアを閉めると、俺は彼女に椅子をすすめた。
出版社が用意した部屋は見晴らしの良い上層階。
小さめのテーブルと2脚の椅子、その奥に暖かな日の入る窓を背にして大きなデスクが仕事をしろ、と迫るように配置され、対して、ドアの向こうのベッドルームにあるベッドのサイズは、これだけ立派なホテルと部屋なのに、どうしてこうしてシングルサイズが収まっている。
出版社がベリーヒルズビレッジホテルの設計時点から法人契約をして、間取りまで発注していたらしい、とは缶詰にさせられる作家仲間の間ではよく聞く話だ。
テーブルには、よく冷えたミネラルウォーターのペットボトルとガラスのコップ、お絞りが置かれている。
トークショーを終えて、この缶詰部屋に戻った時には気付かなかったが、S新聞社が用意した物だろう。
彼女がここに来てくれるかどうか。
そんな事を考え込んでいて、視界に入っていなかった。
「あ、何か飲む? これで良ければそれでもいいし、他にも……」
彼女に背を向け備え付けの冷蔵庫に向かおうとしながら、何をしているんだ、と自分でもらしくなく緊張が解けない。
そんな背後で足掛け7年間探し続けた「あの子」の気配が動く。
「あの、失礼な質問をしてしまったなら謝ります」
かけたばかりの椅子から立ち上がり、彼女が両手を揃えて頭を下げる。
「え?」
「さっきの質問が気に入らなかったんですよね? だけど……!」
頭を上げた彼女は、また眉を寄せ困りがで、でも主張をしようとする。
「先に先生が、私の格好を、その……、好きなタイプ……、とか発言されるから……!」
眉を寄せたまま、唇を噛みしめる表情は、今日、演壇の上から盗み見した困り顔の中でも最上級の困り顔で。
頬と耳を赤く染め、口をキュッと結び、さらには大きな瞳が潤い始めるのが見え、でも、それさえも可愛らしく見える。
が、泣かせたくて呼んだんじゃない。
「ごめん、誤解させたね、怒って呼んだんじゃない」
「え?」
今度は彼女が呆ける番。
「君を探していた」
「私を、先生が?」
「そう。さっき言ったよね? 父の講演会の最前列に座っていた君を見ていた」
「それは、何年も前で……」
「うん。7年前。父がまだ存命で、年に何回か今日みたいに新聞社や出版社の主催でトークショーや講演会をやっていた」
「はい」
ホテルの柔らかな絨毯の上をゆっくりと彼女の前へ進むと、瞳の潤いは引っ込み、代わりに、トークショーの最中のようにじっと見つめ返してくる。
その瞳を俺は探し続けていた。
「あの時、俺はまだ学生だったけど、父の仕事を手伝っていて、そういう会場にも出入りしていて」
「はい」
「そこで君をみつけた」
「どうして私を?」
「まあ……、俗で言う、一目惚れ?」
言ってるこっちも恥ずかしいが、言われた彼女はポッと再び頬を染めた。
「ほら、父の読者って、ご年配の方がほとんどだろ? そんな中に君がいて、しかも最前列で。誰かに連れてこられた、って感じじゃなく、今日もそうだったけど、一語一句聞き逃さない、って真剣で……」
「そ、それは、先生の作品が好きだから!」
意味合いは違うと分かっていても、まるで告白のように聞こえて、でも、それは同時に俺を傷つける。
赤くなりながらも言い返す彼女の瞳を真っすぐに見てハッキリと言う。
「だから俺は父の跡を継いだ」
「はい?」
「君が父を見ていたあの眼差しを、『広橋文也』を引き継げば、今度は俺に向けてくれるんじゃないかと思った。だから、5年前、俺は父の仕事を継いだんだ」
呆然とする彼女の肩に手を置き、腰を屈めて視線を合わせる。
「君は今の広橋文也の作品は好き?」
近距離に来た俺に戸惑いながら彼女は頷く。
「じゃあ、広橋文也は好き?」
「な、なにを……」
掴んだ肩がこわばるのが分かる。
「俺が今、こうして作家でいるのは君が好きだから」
「そんなの……」
「うん、知らないよね。俺が勝手に一目惚れして、片思いして、探し続けてた、ってだけだから」
彼女の瞳が戸惑っている。
「作品は餌なの」
「餌?」
大きな瞳が瞬いた。
「そう。君を誘き出すための餌」
それを生業にしているんだ。
本音半分、比喩半分、っていうところだけど……。
「そんな言い方しないでください!」
彼女はキッと俺を睨みつけて大きな声で言った。
「私は、先生の作品が好きです! ずっと前の作品も、今、先生が書かれている作品も!」
「そう、ありがとう」
感慨もなく言う俺に彼女はまだ睨んだままで、
「餌、とか言わないでください! 私は、ずっと先生の作品を読んでいて、全部、好きで、……!」
「そう、本当に、ありがとう」
涼しく言う俺に彼女の瞳には怒りすら見え始める。
「これからもずっと、先生の作品を読みたくて……! ずっと……!」
「うん、じゃあ……」
肩に置いていた手を彼女の腰に回す。
「じゃあ……」
ぐっと近くなった距離に戸惑いながらも彼女は顔を上げ、目を逸らさない。
「俺のそばにいて」
合わせた目が大きく見開く。
「これから、ずっと、俺のそばにいて欲しい」
驚きのあまり声を出せずにいる彼女を見つめて言う。
「俺と、結婚しよう」
彼女はこの急展開にわなわなと震えだすけれど離さない。
探し出したら結婚する。
7年も追い続けていれば、俺の思考はもう常識とか関係なくなっている。
驚くのも仕方ないし、即決できる話じゃないとは分かっているけど、もう離さない。
「ね? 作品だけじゃなく……」
真っ赤になった頬を指で触れると、色味同様、高くなった体温が冷たい指に心地いい。
「俺を好きになって」
身長差から俺を見上げる格好の彼女が何か言おうと口を開いた時。