極上の餌
「それで、缶詰部屋解放なんだ?」
晃が羽織着物を手早く揃えながら言った。
「缶詰になって1週間でしょ? 当然、まだ煮詰まってるのかと思ったのにあっさりレジデンスの方に戻ってるからびっくりしたよ」
昨日、惜しみながら彼女をホテルの部屋から帰してから取り掛かった執筆は、自分でも驚くようなスピードではかどった。
些か物語が甘い展開になっている、と指摘したのは朝一番で原稿を確認に来た出版社の担当編集者。
「そう。まさに、愛の力は強し! てね」
「愛なのか執念なのか……」
持参した紙袋に次々和装を入れると晃は半ば呆れたように、でも言葉はあたたかく、
「彼女、来てくれるといいね」
と笑む。
唯一、俺の長期片思いを知っている晃。
今は父の頃から付き合いのある呉服店の若店主になっているが、出会ったときはお互い、父親の背を見ているだけの子どもだった。
二人とも他に道が無かったわけじゃないのに父の跡を継ぎ、今に至るまで公私で付き合いは続いている。
父ほど頻繁に着るわけではないが、折々に着る和装は全て晃に任せていて、今日は昨日の着物の手入れのための回収だ。
「いきなりプロポーズってのはちょっと……、いや、ドン引きだけど、執筆力上げてくれる存在はいいね」
「俺は仕事のために結婚したいんじゃない」
「そお? 作品は餌だ、って言っちゃったんでしょ? ホント、ドン引きだよ」
心底呆れ顔の晃に、挙げ句、更には「餌になれ」発言したとは言わないでおこう。
「でも、その子、嫁さんになってくれたら俺も嬉しいよ。やっぱ、女性用の着物の仕事の方が華やかだし」
「俺からまだ稼ぐつもりか?」
和装モダンを楽しむ男性も増えたと聞くが、きらびやかなのは確かに女性の方だ。
でも……。
「彼女の着物は俺が選ぶから」
「はあ?」
「依頼するとしても、彼女に似合う着物を選ぶのは晃じゃなく、俺だから」
何色が似合うだろうか、と彼女の姿を思い浮かべる俺を見て、
「はぁ〜」
と晃のため息を漏らす。
袋詰めした荷物を肩にさげながら晃はまた呆れ顔で、
「今からそんな独占欲丸出しじゃ、益々引かれるぞ。そもそも、まだ返事ももらってないんだろ? ホテルからレジデンスに戻った事、彼女知ってるの?」
「当たり前だ。抜かるわけ無いだろう」
昨日の帰り際、ちゃんと連絡先の交換はしたし、アンケートには「琴音」だけだった名前のフルネームも聞き出した。
桜庭琴音
名前に合わせて桜色の着物も似合うだろうな……。
黒タイツももちろん可愛かったが、和装、洋装、色んな彩りを纏わせて見てみたい。
「おーい、どこ行っちゃってんだよー」
退室しようとしているのに見向きもしない、遥か遠くへ思考を飛ばす俺を晃が呼びかける。
「妄想するのが仕事なのは分かるけど、彼女の前ではほどほどにな」
「努力する」
的確なアドバイスに頷き、晃を見送る。
最後まで俺の片思いの成就を願って帰る晃はいい友だと思う。
晃に彼女を紹介できる日が早く訪れるように、願わずにいられない。