極上の餌
ベリーヒルズビレッジホテルでのトークショーから1週間ーーー。
俺は母校の恩師に呼ばれて、5年前、父の急死で慌ただしく卒業した大学の研究室を訪れていた。
オフの今日は和装ではなく、カジュアルなジャケットとパンツスタイル。
学生と大差ない服装のつもりだったが、実際、構内ですれ違うとよる年には勝てないと感じたところだ。
「出版業界の内情なんてさほど詳しくありませんよ、俺は」
「なんとかならんかね? 来年度、就活セミナーの輪番なんだ」
分厚く重いマグカップにたっぷりのドリップコーヒーを煎れながら、恩師の佐藤教授が背を向けたまま言う。
佐藤研究室のコーヒーの香りと、学生相手でも教授自らコーヒーを煎れるエピソードは有名で、どうやら在学中から現在まで変わらないらしい。
恩師から呼び出されても締め切りに追われて訪ねられない方が多い。
今は琴音のおかげで余裕があり、たまには恩返ししたいところだが、就活セミナーに相応しい話題を俺は持ってない。
何しろ、成り行きで就いた作家なのだから。
「なんでしたら、担当編集に相談しましょうか?」
「頼むよ、K社でもG舎でも、どこでもいいから」
「そんなどこでもって……。先生こそ、ご自分の著書の関係出版社があるんじゃないんですか?」
出版業界は広いようで狭い。
恩義を怠れば意外なところで痛い目に合う事もある。
「だ〜から、一社に絞れない」
「なるほど。だから俺に白羽の矢が……」
「私の推薦した就職を蹴った不義を返すと思って頼む」
「はあ……。根に持ってたんですね……」
いい香りを漂わせて、恩師がソファーに座る俺の前のローテーブルにマグカップを置いた。
「まさかまさか、ジョークだよ」
いい年をしてウインクまでして見せる教授に苦笑する。
5年前のあの日も、教授は全身に線香の香りを染み込ませた俺にコーヒーを煎れてくれた。
教授も父の本の愛読者で、その急死を心底惜しんでくれた。
そして、書きかけの原稿の続きが頭の中に溢れ出てくるんだという俺の吐露に、是非、それを読みたいと言ってくれた。
父の本を出し続ける事を望んでくれる人がいる。
それは、父の講演会を最前列で真剣に聞いていたあの子もきっと……。
研究室のコーヒーの香りはいとも簡単に俺を学生最後の時に引き戻す。
「出版社の件は、後日、K社の担当編集者に直接教授に連絡するよう言ってみます」
「おお、助かるよ」
5年でだいぶ後退した額を光らせて教授が笑んだ。
不義理をしたのは事実だし、このコーヒーと笑顔には逆らえない。
「どういたしまして……」
コンコンコン
コーヒーに手を伸ばす時、ドアがノックされた。
「佐藤先生、後藤田先生が会議が始まると……」
ドアからひょいと覗かせた顔を見て思わず椅子から立ち上がった。
「琴音!?」
1週間前、別れたきりだった琴音と思いもしない場所での再会。
「え!? 先生!?」
琴音の方も驚いた様子で、佐藤教授への用事など忘れて飛び上がらんばかり。
「なぁんだ、お二人さん、知り合いだったのか」
佐藤教授ひとり、のんびりとした口調で、ああ、そうだ、会議があった……、と席を立った。
「すまんが、会議に行ってくる。広橋、せっかく煎れたコーヒーだ、ゆっくり飲んでいって構わんぞ。鍵はいつもの場所に入れておいてくれ」
佐藤教授は、デスクからいくつかの資料を持つと、さっさと研究室を出ていこうとする。
「おお、桜庭さん、時間があれば広橋に付き合ってやってくれ。あの剣客シリーズの広橋文也だぞ。オマエさんが大ファンの」
琴音の開けたドアをすり抜けながら、
「ああ、顔見知り、てことはもう知ってるかぁ」
などと独り言を言いながら。