極上の餌
主の消えた研究室に二人、風のように去っていった佐藤教授の煎れてくれたコーヒーの香りが漂う。
「琴音?」
「は、はい!」
ドアを開けた姿勢のまま棒立ちの琴音に呼びかけると、先日と同様に困惑や緊張の返事がきた。
「時間があるなら、付き合ってくれる? 佐藤研究室名物のこのコーヒー、結構な量だから」
ソファーに腰掛け、ずしりと重いコーヒーを上げると、琴音はようやくにこりと微笑んで入室した。
「佐藤先生のコーヒー熱は先生が在学中からなんですか?」
スプリングが緩みきって深く沈む向かいのソファーに、今日は黒ではなく茶系のタイツの足を揃えて座りながら彼女は柔らかく笑む。
前回よりも多少、警戒が和らいだ事はその表情でよく分かる。
「この部屋の香りは変わらないよ」
「そうなんですか」
まだ熱いコーヒーを一口飲む。
変わらない、いい味だ。
「琴音はここの学生だったんだ?」
「はい」
プロポーズした仲だけど情報不足は否めない。
もっと色々聞き出したい、と顔に出ていたのか琴音の口が開く。
「広橋文也先生の母校だからこの大学でこの学部に入学しました」
俺の経歴は「広橋文也の息子」以外は伏せているので、この場合、父の母校という認識だろう。
「そんなに父が好きだったんだ」
思わず、はぁ〜、と深いため息が出た。
自慢じゃないが「好き」だけで入れるレベルの学校ではない。
亡くなった、しかも肉親に嫉妬しても仕方ないが、彼女のファン熱は相当なものだ。
「佐藤研なの?」
「いえ、後藤田先生の研究室です。私、そこまで成績良くなくて……」
「ああ、研究室争奪適正試験ね。まだあるんだ?」
「はい」
「ん? 研究室所属してる、って事は4年? 春に卒業?」
「はい」
「就職は? それとも院?」
「一応、内定頂いてます」
「それで、俺にお返事をくれないの で す か ?」
わざと覗き込むようにして丁寧に問うと、やっぱりこの展開になるのかと琴音は視線を反らした。
「あまりに現実的じゃなくて……、あの日は夢みてたんじゃないかって思ってて……」
「君のテリトリーの学内で再会したんだ。夢じゃないでしょ?」
「そうですね……」
「びっくりしたけど、また会えて嬉しいよ」
俺の素直な本心に琴音もコクンと頷いた。
え?
同意した?
頷いたよな、今。
恩師の研究室でなければ小躍りしているところだ。
そう、恩師の研究室でなければ。