極上の餌
「これからどこか行かない?」
「え? 今からですか?」
琴音は驚くが、俺は至極真面目に誘っている。
「今日は論文発表の準備があるので4限まで研究室です」
「あ、あぁ」
すっかり忘れていた。
彼女は学生。
こんな自由業の俺とは違うんだ。
「先生こそ、お仕事よろしいんですか? 先週のあのお部屋は執筆用に閉じ込められた部屋なんですよね?」
説明はしなかったが、状況から察したらしい言葉に苦笑する。
「ちょっと煮詰まってたけど、あの後すぐに書き上げて釈放されたよ。琴音のおかげで」
「私の?」
「そう。琴音がいつ会いに来てくれるか分からないのに、缶詰部屋じゃ身動き取れないでしょ? だから、あっという間に書き上げた」
「そんな……」
俺の言葉を真実とも冗談とも分からないように困る琴音の表情が可愛い。
「編集者が言ってたよ。なぁ〜んか、展開が甘々だ、って。これも琴音の影響」
「それって、剣客シリーズですか? それともM新聞社の朝刊の方……!?」
反応を楽しむようにわざとオーバーに言ってみたのに、琴音は物語の展開の方に食い付いてきた。
俺への興味よりも、作品愛?
まだまだ心は掴めてないのか……。
超えたかと思ったハードルはまだまだ高かった。
「結婚すればいつでも新作ホヤホヤを読ませてあげるよ」
笑って言うと瞳をパチパチ瞬いて赤くなった。
「もしかしたら作風が全部、甘〜くなってるかもしれないけど。それはそれでいいかもしれないし。うん、ちょっと新作書けるかもしれない」
「え!?」
七変化する琴音の表情を見ていたら、こんな可愛らしい娘が登場する話が頭の中に浮かんでくる。
「早くもいい餌になってくれてるね、琴音は」
「そんな……!」
慌てる姿がまた可愛い。
何度でもちょっかいを出したくなる。
でも、残念ながらここは恩師の研究室。
機会はすぐに作ればいい。
「今日は帰るよ。次、いつ会える?」
偶然再会しただけなのに、佐藤教授の用件は俺にとってはついでの出来事になっている。
「えっと、そうですね……」
一蹴されるかと思いきや、ちゃんとスケジュールを思い出そうとしている素振りに、俺の方は一喜一憂させられてる。
それを無意識にやってのけているのだから、結構、小悪魔かもしれない。
「そうだ、明後日の昼はどう? 屋外庭園で野点があるんだ」
「庭園で野点……?」
「ああ、そんなに畏まったものじゃないんだ。知り合いの呉服屋が企画したテナント同士の親睦会みたいなもので」
「予定は大丈夫ですけど、私、お作法もよく知らないし、場違いじゃないですか?」
「馴染みのない人に日本文化の敷居を低くしよう、って企画のデモンストレーションみたいなものなんだ。だから、平日の開催で。様子をみて、週末に大々的に集客してやろう、って算段らしい」
ベリーヒルズビレッジのショッピングモールに店を構える和菓子屋やお茶屋の若店主たちと晃が集って企画している内容は散々聞かされている。
どの店も日本の古き良き文化を残し、世界に発信する事に熱くなっている。
「それじゃあ……、ご一緒させてください。私、野点って初めてなので楽しみです」
明るく微笑む琴音の表情に安堵する。
「俺も楽しみ」
ここ数年、仕事仕事で、先の予定で浮足立つなんて随分していない。
「あ、屋外だから温かい格好をして来て……、いや」
日本庭園にいる琴音を想像し、言葉を途切る。
「着物を用意するから、普段通りの服で来てくれればいいから」
「き、着物を!?」
「ああ。雰囲気出るだろう?」
「そんな、私、成人式でしか着たことないのでどうしたらいいか……!」
「大丈夫、大丈夫、ちゃんと選んでおくから」
先週、晃と話していた事が存外早く実現しそうで、俺は益々嬉しくなる。
「俺も和装だよ? 揃ってた方がいいだろ?」
「先生が、そうなら……」
琴音自身、羽織着物の俺の横で洋服を着た自分を想像したのだろう。
確かにそれは少々不釣り合いだ。
琴音が洋装なら俺もスーツで構わないと思っていたが、こんな誘導で納得するならそれでいい。
「琴音、俺の和装、結構好きでしょ?」
缶詰部屋で抱きしめた時、嫌がる素振りを見せなかった事に調子に乗って言ってみると、一気に真っ赤になって、
「は、はい……」
と彼女は頷いた。
ここが恩師の研究室じゃなかったら……!
琴音の柔らかそうな真っ赤になった赤い耳を見て、俺は心底、そう思った。