極上の餌
会場入り口のドアの近くで吉田はまた腕時計を確認している。
彼女は司会者らしく地味な色合いのパンツスーツ姿だが、ぎゅっと纏めたヘアスタイルから勝気な性格が容易に想像できる。
「そろそろお時間です。私が先に簡単な諸注意、ご紹介のあとでお呼びしますので、先生はそのタイミングで登壇してください」
「分かりました」
座ったまま羽織の袖を広げて肌触りを楽しみながら対応する。
結び紐の素材は特に柔らかくて、それを無意識に触っていると、彼女がふっと近づいてきた。
「あまり触られて解けたら面倒です」
その声色がさっきまでの仕事モードと違う。
結び目に置いていた俺の手を上から触れられそうになり、慌てて両手をホールドアップ。
「は、はい」
吉田の控え目な色なのにグロスを効かせた妙に艶めかせた唇が思いの他近くにあり、正面から見ないように、会場入り口のドアに視線を向けた。
「大丈夫、もう触りませんから」
晃が選んだ結び紐は色が派手な代わりにシンプルな手組紐で、一見、結んであるように見えるが、しっかり留められているからまず解けることは無い。
だからあなたも俺に必要以上に近づかないでくれ。
「あら、残念」
言葉とは裏腹に獲物を見つけた女豹のような目つき。
浅く掛けた姿勢のまま背を反らしている姿勢に、大方、女慣れしていない世間知らずな男とでも思ったのか、彼女はまた薄く笑むと、すっと背筋を伸ばして会場に向かった。
香水なのか衣服からなのか知らないが、吉田の残り香がグロスのテカリと同じく好みじゃない。
彼女が響かせるヒール音と反比例して流れていたBGMがフェードアウト。
言われていたとおり、諸注意のあと、俺のやや複雑な経歴が簡単に紹介される。
「皆様、お待たせいたしました。只今からS新聞社主催、作家、広橋文也先生のトークショーを始めます」
艶めく唇の女性の発したの仕切りで、俺のトークショーが始まった。