極上の餌



「琴音はどうして父の作品を読み始めたの?」

今まで聞いたことが無かったが、若干、22歳の女子大生が時代小説を好んで読むのはありがたいことだけど稀有だ。

俺の問いに琴音は一瞬キョトンとした後、思い出したように口を開いた。



「亡くなった大好きな曾祖母がよく図書館で借りて読んでいたんです」

「曾祖母……、ひいおばあちゃん」

年代的にそれなら納得だ。

「おばあちゃんは戦前戦後苦労したそうで、教育にもあまり手をかけてもらえず字が読めなかったんだそうです」

「そう」

「仕事に出ていた先のご主人がいい人で、仕事の合間にその家にある本を読んでもいいと言われたそうで、それで必死に字を覚えたって」

まるで時代小説を地でいっているような話が数代前までこの日本でもあったんだ。

「字が読めるようになると嬉しくなって、手当たり次第に読むようになり、ゆっくり過ごせるようになった頃は図書館に通い詰めだったって言ってました」

「ありがたいね。そんな苦労した人が父の本を好んで読んでくれてたなんて」






ふっと彼女はスカートの裾を気にしながら姿勢を正して俺の顔を見上げた。


「先生が私を見つけたっていう7年前の講演会……」

「うん?」

「本当はおばあちゃんと一緒に行く予定だったんです」

「そうだったの?」


記憶を思い出してみるが、あの時、彼女は連れ立って来ている様子じゃなかった。


「おばあちゃんも楽しみにしていたんですが、少し前に入院してしまって……。だから、私がちゃんと聞いておばあちゃんに内容を伝えなきゃ、って思ってたんだと思います」

7年前のあの真剣な眼差しは、父を通り越して大好きな曾祖母へ向けられたものだったのか。



だが、そうだとしても、俺はあの瞳に一目惚れしたんだ。



「ちょっとがっかりしました?」

「なんで?」

「だって、おばあちゃんのための最前列だったんだから……」

「とんでもない」

何を恐縮するのか眉を八の字にして俺を見る琴音の額に額を合わせる。



「ありがとう、琴音」

「何がですか?」

額を合わせたまま、俺を見ようとするから自然と顔が近づき、唇が触れた。

「ありがとう、琴音」

「だから、何がですか?」

今度はクスクス笑いながら言う彼女の唇を再び塞ぐと、甘いくぐもった声が漏れる。


曾祖母の代からの読者で、ウィキペディア以上に広橋文也を熟知している存在が、こんな風に俺のキスに溺れてしまう。

こんな公私の充実は無いだろう。







いつの間にか後頭部に回した手で彼女の姿勢を固定して、柔らかな唇を味わい続ける。

はじめこそ慣れずに戸惑っていた舌も、いつからか俺の動きに応えようとする仕草が益々可愛い。


チュッとリップ音を鳴らして離れた唇を間近にしたまま、

「琴音、本当に就職するの?」

と、問うと、困り顔で彼女は頷く。

「このまま俺に永久就職でいいのに」

言いながら額にキスすると、琴音はキュッと肩をすぼませる。

「今時、永久就職なんて言葉、死語ですよ」

作家相手に言葉のセンスを指摘する琴音。

それすら可愛いのだから仕方ない。




「ねえ、結婚しよう」

もう回数も分からないほど何度も言うプロポーズだが、琴音の返事は未だにノーだ。



「内定貰うの、結構苦労したんです。先生方にもお世話になったし……」

「うーん、それを言われると俺も強くは言えない……」

「先生は就職しないまま作家になったんですよね?」

「佐藤教授の推薦先を断って。でも、広橋文也を継いだのは公には伏せてたから、理由なく辞退した大馬鹿野郎だったの、俺は」

「誤解なのに……」



口を真一文字に閉じる俺と八の字眉の彼女。

大卒の就職、というタイミングは正に人生の分岐点だ。






「内定先って、琴音がどうしても就きたい職業なの?」


女々しいかもしれないが、大学の教授陣に俺が頭を下げて済む問題なら、彼女を得るためならいくらでも頭を下げる。

が、本人が希望して就職するなら、それを止める権利はない。


「就きたい仕事……、いえ、手あたり次第の就活でようやく拾ってもらえた先です」

恥ずかしながら、と言い添えて琴音は小さくなった。

「だったら……!」

その話を聞いてからの俺の行動は早かった。





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