極上の餌
前方に若者の集団が見えた。
「おやまあ、京の夜に無粋な集団ですねぇ」
司会者だった男性は時代小説愛好家らしく呆れた物言いで言った。
小料理屋は接待に使うくらいだから上品な佇まいだが、十数メートル先には全国チェーンの居酒屋や、京都らしい新選組や坂本龍馬を店先に装飾して観光客を誘う飲食店もある。
その賑やかな店先に集う若者の中に、俺は見知った顔を見つけた。
間違うはずがない、琴音だ。
酔っ払いと素面が混ざるその5、6人のグループは、大声を上げる酔っ払いの青年を諫めたり、逆に茶化したり、いわゆる酔っ払いの集団で騒いでいる。
その中で琴音は大声を上げる千鳥足の青年を困った様子で支えている。
自分の体よりも大きな青年と密着する姿を俺が見続ける事などできるわけない。
未だ俺の腕に手を回そうとする女優を振り解こうとした、その時。
「ああー! 鳴海香澄だ!」
前方の集団の中の酔っ払いが大声で叫んでこちらに指差した。
その名が誰か? と考え、初めてそれがこの女優の名前と知った。
若者は揃って俺たちを見る。
それはもちろん琴音も一緒に。
「せんせえ?」
唇がそう動いたように見えた。
だが、その表情は、こんな離れた街で偶然会った驚きから、直後、俺を避ける、信じられない、という顔に変わる。
「あら、困っちゃいますね?」
言葉とは裏腹、全く困ったようには見えない妖艶さで、なおも俺の腕に手を絡めようとする女優を睨みつけるとそこから離れた。
琴音の表情の原因は、この女か!
現金なもので女優に同情する気など失せて、腹立たしくて仕方ない。
「俺はここで失礼します、今日はお世話になりました」
短くT出版の男に言い捨てると、大股で琴音のいる集団の方向に近づく。
「あ、先生っ、タクシーでお送りしま……!」
「―――結構です!」
T出版の声を遮るように言う俺の目には琴音しか入っていない。
足を進めながら頭の中で状況を整理する。
琴音に「考えさせて」と連絡を絶たれてから1か月。
まだ平穏に二人で過ごしていた時、以前から聞いていた京都への卒業旅行は3月中旬の日付で決まったと言っていた。
まさかそれが俺の予定と合致するとは偶然だが、卒業旅行になんで男がいる!?
大学生の卒業旅行といえば、気心知れた同性同士の少人数と相場が決まっているじゃないか!
男と一緒だなんて俺は聞いてない!
そこの酔っ払い、琴音から離れろ!
近づくにつれ琴音を含むグループの中でも素面の面々は、鬼の形相で近づく俺の存在に気付き、何事かと注視しているが、酔っ払いはそうはいかない。
琴音が言葉を発する前に、未だ彼女の肩に寄り掛かる男の腕を掴んで振り解いた。
「―――ふえっ!?」
男の体はふらふらと後退し、近くにいた仲間の一人がそれを受け止める。
体の軽くなった琴音は大きな瞳を見開いて俺を見上げている。
いきなり登場した部外者の俺に他の若者も声を無くして。
それは恐らく背後のT出版社関係者や女優も同じだろうが、構ったことじゃない。
「おいで、琴音」
感情とは裏腹に琴音に向ける声は優しく、ふわりと広げた羽織の袖の中に琴音を包み込む。
俺を見上げる大きな瞳はまだ驚いたままだが、体は抵抗することなくストンと俺の胸に収まる。
「せんせい?」
拙い子どものような口調で俺に問う琴音は、会えなかった1か月で益々愛おしい存在になっている。
「少し話そう。場所を変えるよ?」
「はい」
素直に頷く琴音を胸に抱いたままその場を離れようとすると、ハッと覚醒したように琴音は近くにいた茶髪の女性に、
「ちょっと私、別行動! ホテルにはちゃんと戻るから!」
と告げた。
相手は依然、唖然としたままだが、そうだった、危うく誘拐犯に誤解されるところだった。
琴音の機転に苦笑すると、胸の中で琴音もクスリと笑った。
「先生、私の事になると慌てすぎです」
余裕のある笑みが見えて、俺は盛大な溜息を吐くしかない。
この1か月、俺がどれだけ絶望し後悔したか。
たかが大学生の娘に……、と思うが、7年も前から虜になっているのだから仕方ない。
「ホント、重症なんだ。だから琴音が何とかして」
大の男が年下の女に言う台詞じゃない。
俺の作品の江戸の侍たちだったら、絶対に言わない言葉だ。
だがそれを琴音はクスリと笑って受け止める。
「仕方のない先生ですね」
それは一度失くした大事なものが戻ってきた瞬間だった。