Sister Cherry! ~事故った妹は今日も事故る~【シーズン1】
【バイバイ、お兄ちゃん……】
34.桜子は何か忘れているような気がする
【バイバイ、お兄ちゃん……(1/3)】
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その日、桜子は朝から、
(何か、忘れているような……?)
ずっとそんな思いがしていた。それほどたいしたことではない気がするけど、何となく胸に引っ掛かって気持ちが悪い。
(学校の持ち物だっけ……? それとも、サナ達と何か約束してた?)
机の上のプリントを捲ってみる。スタンプやシール、サナとチーと撮ったプリクラでいっぱいのスケジュール帳をチェックしてみる。だが、別に、それらしい予定は見つからなかった。
(じゃあ、やっぱり“お兄ちゃん絡み”かなあ……?)
首を傾げながら夏セーラーで階段を下りると、いつも桜子より20分早く家を出る遼太郎が靴を履いているところだった。
「ねー、お兄ちゃん。あたし、お兄ちゃんと何か約束してなかったっけ?」
「いや? 特に思い当たらないけど、どした?」
桜子は腕組みして、うーんと逆側に首を傾げ直す。
「何か朝からさー、忘れてることがあるよーな気がしてるんだけど、思い出せないんだよねー」
桜子がそう言うと、遼太郎が笑った。
「忘れてるも何も、記憶喪失じゃねーか」
「あはは、ごもっとも」
桜子が笑い返すと、遼太郎はいつもの「じゃ、行って来る」で出掛けていった。遼太郎を見送り、桜子は首を捻る。
(お兄ちゃんでもないとすると、やっぱり学校の方?)
そうこうしている内に桜子も家を出なくちゃならない時間になり、スッキリしない気分のまま通学路を歩く。
(持って行かなきゃならない物、忘れてるんじゃなければいいけど……)
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幸い、学校でも忘れている提出物などはなかった。
昼休みになってお弁当を開き、サナとチーにも訊ねてみたが、これといって約束したこともないようだった。二人ともうーんと唸って、
「何だろうね? アタシらも、何か忘れてる……?」
考え込むので、桜子は軽く手を振った。
「ううん、たぶんそこまでのことじゃないと思うんだよね。観ようと思ってたテレビがあるか、何か買わなきゃいけないものがあるとか……」
「ドラッグストア系?」
「うーん、違うような……?」
「雑誌とかそっちじゃない?」
「雑誌はもうええねん///」
「???」
頭に浮かんだ漫画雑誌の表紙絵に、桜子がちょっと顔を赤くして、サナとチーをきょとんとさせる。
と、そこで親友二人は顔を見合わせ、
「「あ、わかった。“お兄ちゃん関係”だ」」
声を揃えて言われ、さすがに桜子も苦笑して、
「それは朝イチ確認したし。いくらあたしでも、そういつもいつもお兄ちゃんのこと考えてるわけじゃないよ」
前半は本当だが、後半は結構怪しい。チーは生温かい目で桜子を見つつ、
「そうかなー? じゃあ……」
「アズマー! お前はどう思うー?」
隣の席で、弁当箱からキュウリの刺さったチクワをつまみ上げた東小橋君に、いきなり振った。席が間近で、話してみると案外面白イイ奴の東小橋君は、近頃では桜子組とチョイチョイ絡みがある。
「桜子殿の忘れていること? そうでござるな……」
「前世の記憶、などではござらぬだろうか――……」
「今世の記憶がねえっつう話だよ、そもそも」
黒縁眼鏡を中指で押し上げる仕草に、遼太郎を思い出してちょっとドキッとした桜子をよそに、サナが呆れ顔で言うとチーがプッと吹き出した。
「ウケるー。桜子、忘れ過ぎじゃねー?」
ケラケラ笑うチーを、桜子はジトッと見て、
「何言ってるのさ。忘れ物って言ったら、昔からチーの方じゃん」
「うえっ?!」
桜子の反撃に怯んだチーに、サナはニヤニヤとする。
「そーそー。小学生の時だってさあ、チー、忘れ物が多過ぎて担任に“忘れん坊将軍”ってあだ名を付けられてたもんなー」
「も……もー! いつの話だよー!」
幼き日の黒歴史を掘り返され、チーは赤くなった。すると東小橋君が椅子の上で体ごと向き直り、膝に手を置いて深々と頭を下げた。
「よもや上様とは存じ上げず、数々の御無礼の段、平にご容赦を」
「テメー! ぶっ飛ばすぞ、アズマー!」
東小橋君を手討ちにせんばかりのチーに、サナと大笑いする桜子だったが、肝心の“忘れていること”についてはまだ思い出せないでいる。
何だか腰の辺りがムズムズするような気分が抜けないまま、桜子の一日は6時間目の終わりまで滞りなく過ぎていった。
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「ただいまー」
誰もいない家でも、無意識に帰宅のひと声を掛けるのは、記憶のない桜子の体に染みついた習慣であるらしい。階段を上がり、制服から部屋着に着替え、リビングを通ってキッチンに入っても、ずっとモヤモヤと“忘れごと”は、たなびく靄のように桜子の後ろを付いて回った。
部屋着姿といっても、ヨレヨレのスウェット上下とか、ダサいカッコを桜子はしない。何しろ外にも増して、家の中には油断した姿を見せられない相手がいる。
ユル過ぎず、さりとてキメ過ぎず、今の桜子はスウェット生地だがキュロット風でちょっとカワイイ膝上のグレーのショートパンツに、生成りの七分袖パーカーTシャツを合わせている。
これも例の“お兄ちゃん改造計画”の時に一緒に買っておいた、遼太郎に見せるためだけの桜子の健気な部屋着コーディネートだった。
その恰好で桜子は冷蔵庫を開け、中身を物色してると牛乳パックに目が留まり、思わずクスっと笑った。
(りょーにぃ、いっつもパックに口つけて飲むんだよねー)
紙パックの飲み物を口飲みするのは小学校高学年くらいからの遼太郎のクセで、だらしないのか、漫画か何かでも見て真似しだしたのか、前は桜子もイヤで仕方なかった覚えがあるが、今はそうでもない。
(て、言うか、むしろ……///)
桜子は悪戯っぽい笑みを浮かべ、手に取った牛乳の注ぎ口を開くと、その先端にちゅっとキスをした。
(えへへ……これで、次にりょーにぃが飲む時、間接キス~)
桜子は何も知らない遼太郎が、いつもどおりパックに口を付けるところを思い、ニヤニヤして牛乳を冷蔵庫に戻す。
そして麦茶をグラスに注ぎ、鼻歌を歌いながらダイニングへ回ってきて、ひと口飲み――……
「“りょーにぃ”……?」
桜子は、自分が無意識に心の中で遼太郎を“りょーにぃ”と呼んでいたことに気づいた瞬間、朝から気になっている“忘れていること”が何なのか不意に理解した。それは、“何もかも”だった。
手から滑り落ちたグラスが、床で音を立てて砕けた。
グラスを取り落としたことにも気づかないで、桜子はダイニングの宙に視線をさまよわせている。
(そう……だ。あたしが“忘れていたこと”って……)
『忘れてるも何も、記憶喪失じゃねーか』
『今世の記憶がねえっつう話だよ、そもそも」
『ウケるー。桜子、忘れ過ぎじゃねー?』
みんなの言う通りだった。今までの“記憶の全て”なのだ。
遼太郎の言ったこと、サナとチーが言ったことが、耳の奥でリフレインされた。サナと話したチーの小学校の頃のあだ名、遼太郎が昔から牛乳を口飲みしていたことを、桜子は知っていた。
違う。思い出していたのだ。
(この、違和感は……)
あたしの記憶が、戻ろうとしている徴候……?
桜子がそう意識した途端、頭と胸の奥で閉ざされた扉が開こうとしている、そんな予感が全身を走った。
桜子はその感覚に眩暈を起こしたようになり、テーブルに手をついた。ガタン、テーブルが一瞬桜子の重みを支えかねて、大きな音が鳴った。
「桜子?!」
その時だった。桜子の眩んて狭まる視界に、血相を変えてリビングに飛び込んで来る、遼太郎の姿が映ったのは。
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遼太郎が玄関を入ると同時に、リビングからガラスの割れる音、次いでガタンと大きな物音が聞こえた。
桜子だと思った。遼太郎は考えることなく、重いカバンが肩から落ちるに任せ、リビングへ駆け込んだ。見るとダイニングテーブルに手をついた桜子の体が、バランスを崩して今しも倒れようとしていた。
遼太郎は桜子へ飛びつくように、倒れ込んでくる体を受け止めた。
それは、まるであの日の病院で、遼太郎と桜子が初めて出会った瞬間を再現するかのようだった。
抱き留めた桜子が、顔を上げた。
「……お兄ちゃん……?」
その顔はぼうっとして熱っぽく、視点も定まっていない。
「どうした?! 大丈夫か、桜子?!」
慌てる遼太郎に、桜子が囁くように言った。
「お兄ちゃん……あたし、記憶が戻りそう……」
桜子の言葉に、遼太郎はうろたえた。桜子の記憶が戻ること自体は、遼太郎も待ち望んでいた。あの時の“事故”から、ようやく本当に回復するのだから。
だが、桜子は今、半ば倒れようとしている。
記憶が戻ることに伴う、不測の事態を遼太郎は怖れた。急なショックで意識を失うかもしれない。現に、桜子の体はくたりと力を失い、自分に寄り掛かっている。
桜子に何かあったら、俺はどうすればいい? 今、桜子が頼れるのは、自分しかいないというのに……
(とにかく救急車……119番か……?)
大人びているとはいえ、遼太郎も高校生でしかない。この場に父さんも母さんもいないことに、痛切な不安を覚える。
「お兄ちゃん、あたし……」
息を喘がせて、桜子が声を振り絞る。
「思い出したくないぃ……!」
悲鳴のような桜子の声に、遼太郎はぎくりとした。見れば桜子は、ぼろぼろと涙を流して遼太郎を見つめていた。
「お前、何言って……?」
記憶が戻るのに……何で、お前は泣いているんだ……? 桜子が、不意に強い力で遼太郎にしがみついてきた。
「だって……! 記憶が戻ったら……あたしは……」
「お兄ちゃんと口も利かなかった、“桜子”に戻ってしまう……!」
桜子の叫びが、遼太郎の胸に突き刺さった。
桜子は、遼太郎の胸に胸を押しつけて泣き叫ぶ。
「イヤだ……! 折角お兄ちゃんと仲のいい兄妹になれたのに……お兄ちゃんのこと大好きなのに……“本当の桜子”が戻ってきたら、“この桜子”は消えてしまう……」
この気持ちは、この恋心は、今ここにいる“あたし”は、失われた記憶の狭間に漂うだけの幻、夢……そんなモノに過ぎないのだという絶望に似た思い。
桜子は、遼太郎に向かって手を伸ばす。いつか、指輪が抜けなくなって遼太郎に助けてもらった左の手を。
思えば出会ったその時から、遼太郎は桜子を助けてくれた。助けて、包んで、受け止めてくれた。だけど、今度ばかりは遼太郎の手も届かない、そんな場所に、あたしは行くんだ。それでも……桜子は必死に遼太郎に手を伸ばす。
「助けて、お兄ちゃん……“この桜子”、消えたくない……」
**********
記憶の闇に溶けかける桜子の体を、遼太郎がきつく抱き締めた。
遼太郎にとっても、桜子の記憶の戻ることは、願いでもあり不安でもあった。記憶をなくす前の、生意気でムカつくことも多い桜子も、もちろん大事な妹だった。
しかし記憶をなくしてからの桜子は、可愛らしくて、困らされて、他愛もない時間を一緒に過ごして、遼太郎にとって日に日に特別な存在になってきた。
(その“桜子”が……“消える”……?)
違う、“消える”んじゃない。“元に戻る”だけだ。記憶を失くした桜子の混乱が終わり、元通りの距離感の、普通の兄妹に戻るだけなんだ。
だから遼太郎は、涙を流す桜子のさまよう視線に、精一杯”お兄ちゃん“らしい笑顔を作ってみせた。
「大丈夫だ、桜子。記憶が戻って、また俺から離れていってしまうとしても、俺は“この桜子”をちゃんと覚えているよ……」
目を見開く桜子に、遼太郎は自分を押し殺して微笑んだ。
「桜子がどんな桜子でも、お兄ちゃんはお前のことが大好きだよ」
遼太郎の手が、桜子の差し出した手を固く握った。
だから、もしこのまま“消えて”しまうとしても。
腕の中でバラバラになって、消えていく“この桜子”を、俺が最後まで抱いているから――……
「お兄ちゃん……あったかいな……」
遼太郎の腕の中で、手を握ってもらって、桜子は泣きながら笑った。
「えへへ……嬉しいなあ……桜子は幸せ者だなあ……」
そう呟くように言って、目を閉じると……
桜子の背後で、記憶の扉が音もなく開いた。