Sister Cherry! ~事故った妹は今日も事故る~【シーズン1】
35.“此花桜子”の消失
【バイバイ、お兄ちゃん……(2/3)】
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失くした記憶が戻る、その瞬間を桜子は、開け放たれた扉から溢れる奔流に呑み込まれる……そんなふうにイメージしていた。
しかし実際には、広くて暗い部屋に、ひとつずつ照明が点いていくような……当然のようにそこにあったのに、見えていなかったものに光が当たっていくような、そんな感覚で記憶は衝撃を伴うことなくよみがえってくる。
あたしは――……
あたしの名前は、“此花桜子”。
中学二年の、女の子。
学校で仲がいいのは、“サナ”こと平野早苗と、“チー”こと都島千佳。
(アズマ君……アズマ君がいるよ……)
家族構成は、おとーさんとおかーさん、そして兄が一人いて……
(お兄ちゃん……大好きな、お兄ちゃん……)
光が、草原を渡る風のように、彼方までさあっと薄闇を追い払った。
桜子は、“全て”を思い出した。
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小さな子どもの頃のこと、小学校の時のこと、中学に上がってからのこと……あの日、走って来る自転車から小学生を庇おうとして、ガードレールに頭をぶつける瞬間から、今この瞬間までが、途切れない一本の記憶としてつながった。
運動会とか遠足とか、卒業式とか。誕生日とか家族旅行とか、クリスマスとか。思い出に残る大きな出来事と、何でもなく過ごした日常が、たくさんのアルバムをばらばらと捲るように、浮かんでは沈む。
(どうして、今まで忘れていたんだろう……)
こんなにも当たり前で、すぐそこにあった自分自身のことを。記憶は“失くした”のではなかった。そこにあるのに、ただ、桜子の目から見えなく覆い隠されていただけだったんだ。
桜子の中でようやく、“おかーさんとおとーさん”が、頭で両親だとわかっているからそう呼んでいる人ではなく、“桜子のおかーさんとおとーさん”になった。生まれた時からずっと傍にいて、愛してくれて、時には叱られた、桜子にとって大切な家族だと、心にすとんと落ち着いた。
けど……もう“一人の家族”は……
(この人は、誰……?)
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桜子の心象風景の中で、その少年は背を向けて立っていた。
桜子は、その少年の顔はわかる。どんな性格をしていて、何が好きで、自分に対してどういうふうに話し掛けてくるのかも知っている。桜子に何かがあれば、必ず抱き留めてくれる人であることだってわかるのに……
その人が誰なのかわからない。
「“りょーにぃ”じゃん?」
「“お兄ちゃん”だよ!」
「“遼太郎さん”ですよ……///」
気がつけば、心象風景に少年を取り囲むように、三人の少女が現れていた。右側にはニッと笑った幼い感じの、左側は胸の前で指を組んではにかんで、もう一人は少年と向き合うようにいてハッキリと顔は見えない。
けれども桜子には、その三人ともが“桜子”だとわかった。そして、三人の言い分がどれも正しいことも知っていた。
その少年は、 “りょーにぃ”で“お兄ちゃん”で“遼太郎さん”だった。
桜子の知る“お兄ちゃん”は、優しくてカッコ良くて、いっぱい遊んでくれて、どこへだってついて行きたい、大好きなお兄ちゃんだった。
桜子が泣いてしまって、そのまま眠ってしまっても、抱っこでベッドまで連れてってくれるし、寂しい時は大きな手でポンポンと頭を撫でてくれる。
“妹”としての桜子は、その少年をそう思っている。
桜子の知る”遼太郎さん“は、初めて出会った日にひと目惚れした、素敵な年上のお兄さん、大好きな男の人だった。
一緒に暮らす桜子をいつもドキドキさせ、そのクセ桜子がちょっと迫ると慌てて照れたりする、可愛い人。デートをしたことも、キスだってしたことあるんだ。
“女の子”としての桜子は、その少年をそう想っている。
「はあ? バカじゃないの、キモイし」
少年の向こうから、最後の少女が桜子に向かってそう言った。
桜子の思い出した“りょーにぃ”は、ウザくて、ダサくて、顔は悪くないクセにオタクだし、デリカシーもないダメ兄だった。
最近じゃほとんど口も利かないし、一緒にいられるとこ友達とかに見られたくないし、“大好きなお兄ちゃん”とか“大好きな男の子”とか、ありえないし。
記憶を取り度した“本当”の桜子は、その少年を前にそう主張する。
桜子は……“今”の桜子は、どの言い分も正しいことも理解している。
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と、“妹”が二ッと笑い、“女の子”がニコッと微笑んで、すっと振り返った。二人はそのまま、桜子に背を向けて歩き出す。
同時に“本当”の桜子が、こっちに向かって足を踏み出した。そして三人が擦れ違った瞬間……”妹“と”女の子“の姿がフッと消えた。
「え……?」
驚いた桜子は、自分の両手が、指先からさらさらと溶け始めてことに気づき、さらに目を見張る。
「えっ、何で……?」
「当然じゃん。あんた、もう“いらない”んだからさ」
桜子を顔を上げると、正面に立った“本当”の桜子が笑っていた。もう見慣れた鏡の中の女の子だったが、どこかイヤな表情だった。
「“いらない”……?」
「そう。“本当”のあたしが帰ってきたんだから、“偽物”のあんたはもう“いらない”……当然でしょ?」
“本当”の桜子は、今までの自分にバカにするようそう言った。
桜子の溶けていく手が、色を失い、透き通る。“本当”の桜子はそんな桜子の前で腰を折り、上目遣いで笑っている。
「あの“二人”だって、記憶がなくなってバラバラになったあたしの一部なの。記憶が戻れば、またあたしとひとつになる“一部”……」
そうだ……事故で壊れて砕けた“桜子”達の記憶、元々はどれも一人の“桜子”、この意地悪く笑う少女のカケラだったのだ。
「あんたの存在は、あたしが帰って来るまでの代役でしかないんだ。まあ、人のいない間に、結構ムチャクチャしてくれたみたいだけど」
“本当”の桜子が、腰を伸ばしてケラケラと笑った。
「あはは、あのダメ兄好きになるとかありえないでしょ。て言うか、兄妹じゃん。うえっ、キモチワルイ」
その言葉は、“今”の桜子を酷く傷つけた。けれど、この子の言い分もわかる。かつての桜子がそう思う気持ちを、“今”の桜子も思い出している。
小さい頃はずっと仲が良くて、けど、中学生と高校生になると、お互いちょっとずつ鬱陶しい存在に感じるようになって。たぶん、そういうのは思春期の兄妹には当たり前で、正しくて……たぶん、間違っているのは桜子で……
(でも、あたしは……)
本当にお兄ちゃんが好きで、その気持ちだけはあたしだけのもので、たとえこのまま消えるとしても、この恋が在ったことは、嘘じゃあなかった……
泣き出しそうな顔で唇を引き結んだ桜子を、“本物”の桜子は軽蔑するような目で見て、言った。
「ま、あんたのキモチワルイ恋心も、あんたと一緒に消えちゃうんだから、別にイイんだけどね」
そして、わざとらしく胸の前で指を組み、小首を傾げて可愛らしい顔をする。
「そうだなあ……あたしの記憶のない間、あんたが過ごしてきた毎日の “記憶”は確かにある。そういうあんたの残り滓くらいは、あたしの中に引き受けて覚えててあげるよ。だから、安心して消えてね」
“本当”の桜子が、残酷に笑った。
「ともあれ、代役ご苦労様。今までありがと」
「じゃあね。バイバイ、“桜子”――……」
その言葉を聞いて、消滅が一気に加速した桜子は――……
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最後の力で、“本当”の桜子に首に抱きついた。
「な……っ?!」
「そうだね……あなたが“本当”の桜子だもんね……きっと、あなたが言うことが、あたしにとっても”本当“のことなんだと思う……」
「けど、あなた、ひとつウソをついてるよね……?」
突然のことに目を白黒させる自分の顔に、桜子は微笑み掛ける。
「あなたは“本当”の桜子だ。けど、あたしだって、あなたの一部なんだ。あたしがお兄ちゃんのことを好きになったんだから、あなただって、本当はお兄ちゃんのことがキライなんかじゃないはず……」
「んあっ?!」
虚を突かれた“本当”の桜子の顔に、“妹”と、“女の子”が、交互に現れた。それを見て、桜子は嬉しくなる。
(二人とも、ちゃんとそこにいるんだね……)
(じゃあ、あたしがいなくなっても、大丈夫だ……)
顔を真っ赤にして狼狽する“本当”の桜子の耳元に、桜子は囁いた。
「“自分”にはウソはつけねーんだぜ?」
「なな、何言って?! あたしは、りょーにぃなんか好きじゃねーし!」
桜子はクスっと笑い、もう一人の自分の耳をはむっと噛んだ。
「後、桜子は耳が弱い」
「ひやあんっ?!」
それから、目を回した自分とおでこをぴたっと合わせる。
「あたしが覚えた、エロい知識も持ってけ」
「何これ、何これ、何これえっ?!」
例のエッチな漫画の記憶を感染されて、“本物”の桜子の頭がぼしゅうっと湯気を上げた。
何だかんだと言って、結局……
(“桜子”は“桜子”なんだなあ)
だから、大丈夫。きっと、大丈夫……
あたしは、消えても、この思いは消えない――……
最後にやりたいだけのことをやって、桜子は“本当”の自分を抱き締めると、
「あたしがいなくなっても、お兄ちゃんと、仲良くね……」
「う……うあ……」
どくん、どくん……二つの自分の鼓動が重なるように響く。
その時、背を向けている少年が振り返った。その顔を見て、その眼差しを見て、桜子にはもう、その人が誰だかわかっていた。
(さようなら、あたしの恋心……)
(さようなら、あたしの“大好きだった人”……)
そして桜子は、光の塵になって、消えた。
永い夢から覚めるように――……
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桜子は目を開いた。
「桜子、大丈夫か……?!」
するとそこには、目に涙を浮かべる遼太郎の顔があった。
ぼんやりする頭で周りを見回すと、そこは家のリビングで、遼太郎の腕に抱かれている。心配するあまり泣きそうな遼太郎に、
「お兄ちゃん、あたし……?」
「お前、一瞬気を失ったようになってたんだ。大丈夫か、ソファで横になるか?」
そうだった。
桜子は学校から帰って、記憶が戻りかけて、倒れそうなところを遼太郎に抱き留められて……そうしたことを、桜子は一気に思い出した。何だか、不思議な夢を見ていたような気がした。
そして、思い出したと言えば……
「覚えてる……あたし、記憶が……全部……」
「本当……か。思い出したんだな、今までのことを……?」
桜子は遼太郎から身を離して、その顔をじっと見つめた。
「それは良かった、けど、平気か? 頭が痛いとか、何ともないか……?」
自分も突然のことに感情が追いついていかないながら、遼太郎はまず桜子の体を心配し、オロオロとしている。
桜子は、そんな遼太郎のことを黙って見つめていたが……
「よ……かったあ……」
不意に大きな瞳から、ぽろり、ぽろりと涙を零した。
「桜子……?」
慌てる遼太郎の胸に、桜子が飛び込んで来た。これで桜子が記憶をなくしてから三度目、遼太郎は妹の体を両腕で受け止めた。
腕の中で桜子は、泣きながら溢れるような笑顔で遼太郎を見上げた。
「お、おい……」
「覚えてる……あたし、お兄ちゃんと仲良くなったこと、覚えてる……!」
桜子は、ぐいぐいと押すようにして遼太郎を抱き締めてくる。
「お兄ちゃん! あたし、記憶が戻っても、お兄ちゃんのこと大好きっ!」
嬉しそうに、そう叫んだ桜子の顔に、遼太郎は“妹”と“女の子”の二つの表情を見たような気がして、思いが込み上げ、そっと抱き返した。
「そうか……ありがとうな、桜子」
「うん……あたし、お兄ちゃんが大好き……ずっと大好き……」
遼太郎の胸に顔を押しつけ、幸せそうに微笑む桜子の頭の中で……
(消えてないじゃん、“あたし”の気持ち……)
(あたしがいなくなっても、お兄ちゃんと、仲良くね――……)
誰かはわからないけど、よく知っている声が、そっと囁いた。