Sister Cherry! ~事故った妹は今日も事故る~【シーズン1】
4.“お兄ちゃん”、困惑する
【はじめまして、お兄ちゃん!(4/6)】
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マグカップ二つ乗せたトレイを手に、慎重に階段を上り、ひとつめのドアの前に音を立てないように置く。正座をする。
そしてきっかり三十秒、桜子は精神と呼吸を沈めた。
(妹が、“お兄ちゃん”にコーヒーを持ってきた。妹が、“お兄ちゃん”にコーヒーを持ってきた、自分の分を淹れる“ついで”のインスタント。大丈夫、何もオカシイことはない、大丈夫……)
コンコン、と二回ノックして、桜子は床の木目を見つめた。何かで聞いたことがある気がする、「天井の木目を見ていれば終わる」という言葉に忠実に。
「りょ、遼太郎さん、桜子です。今、お時間いいですかっ?」
妹が兄の部屋に入るノリでは、到底なかった。
部屋内からカタコトと物音がして、5秒、遼太郎の声が返ってきた。
「桜子? どうした?」
「そのっ、お部屋に入れて頂いてもよろしいですかっ?」
「お、おう。別にいいけど……」
遼太郎の許しを得て、桜子は深呼吸をひとつ、意を決してドアを開いた。
「お邪魔致します……」
(男子の匂いいいいいいいいいいいっ!)
遼太郎は、デスクの前でチェアもこちらに向けて座っていた。初めて、かどうかは記憶にないが、今の桜子には初めて見る遼太郎の部屋は、黒を基調にしたいかにも高校生男子という感じの部屋だ。
デスクは子どもっぽい学習机ではなく、パソコンも置けるシステムデスク。ベッドは武骨なパイプベッドで、枕も布団も黒っぽいカバーが掛かっている。
本棚には文庫本と、アメコミヒーローのフィギュアが並んでおり、女の子を通して恥ずかしいようなエロいモノは皆無だ。パソコンの画面も、とりあえず今は問題のないデスクトップが表示されている。
男子の部屋、というイメージからすると割と片付いていて、ブレザーの制服もちゃんとハンガーに掛けて壁に釣ってある。
ただ、芳香剤とフ●ブリーズの香りに紛らわしつつも、思春期の男子特有のちょっと汗っぽい匂いが仄かに部屋にこもっている。
(こ……この匂いはヤバい。濡……)
“ぬ”、桜子はあんまりな自分の思考を、意識して断ち切った。
遼太扉の方も、扉を開くや正座で平伏している妹に面食らった。
「ど……どうした、桜子?」
「その、コーヒーを淹れてきた……と言ってもインスタントですが。宜しければどうでしょうか、と思いまして」
「あ、うん、頂く。ありがとう……」
言いながら、遼太郎は困惑しつつ妹を見ている。記憶が混乱しているらしいことは理解しているが、今夜の妹の平素の態度と違い過ぎてこっちも混乱する。
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桜子は遼太郎の困惑をひしひしと感じながら、膝でにじるようにして、コーヒーのトレイをガラストップのテーブルに置いた。
「あの、その、遼太郎さん」
「遼太郎さん……?」
妹から、名前に“さん”付けで呼ばれたこともない。かつては“お兄ちゃん”、最近ではいいところ “りょーにぃ”か“おにぃ” だったはずだが。
だが“記憶喪失の妹”は病院で抱き留めてからこちら、神妙な上にどこかビクビクとしていて、何か変に可愛らしい。
「大丈夫か、桜子?」
「はい、あの。大丈夫……なんですけど、その、実はですね、遼太郎さんに、あたしが記憶を失くす前、どんな子だったか伺いたく、て」
こう言われて、遼太郎は納得した。親からは、桜子は過去から今にかけて、自分自身に関する記憶をすっぽり失くしたと聞いている。
だったら今の桜子が、自分一番自身のことを訊きやすいのは、兄である自分なのかもしれない。
遼太郎は努めて“優しいお兄ちゃん”な姿勢を作ると、
「うーん、どんなって言ってもなあ。元気で明るいタイプの、今時の女子中学生って感じじゃないのかな。ざっくりだけど」
「陽キャとか、陰キャとか」
「学校のことはよく知らんけど、陽キャなんじゃないの。見た目悪くないし」
見た目悪くないし。
桜子は正座の膝の間から、クッションの端を両手で絞った。肩が震えるほどの、渾身の力で。
「ど、どうした、桜子?」
「ふーっ、ふーっ……大丈夫です……」
「息荒くない?」
何といっても退院した直後、遼太郎は普通に心配になる。
桜子はいいだけクッションに型を付けると、そのまま身を縮めるようにして顔を上げた。
「えーと、じゃあ、家では……?」
「普通にアホで生意気だったよ」
普通にアホで生意気……
桜子としてはがっくりくる言葉だったが、考えてみれば、世間一般の兄の妹評価はそうゆうものかもしれない。外ではともかく、家では素が出てるだろうし、兄に対して普通は飾ったり取り繕ったりしないわけだし……フツウは。
遼太郎も少し笑っている感じだし、大丈夫、まだ慌てるような時間じゃない。
気を取り直し、桜子は意を決して“本題”をぶつけることにした。
「じゃあですね……あたし、遼太郎さんとは、なっ、仲良かったですかっ?」
遼太郎は妹の決死の覚悟、上目遣いで潤んだ瞳、桜色に染まる頬には気づかない。
「や、そんなでもないかなあ。最近はそんなしゃべることもないし……」
「えっ……?」
妹がこの世の終わりのような顔をしたのにも気づかない。
桜子は正座を閉じ、今度は両脇からクッションをちぎる勢いで握り締めた。
「それって……あたしが“アホで生意気”な妹だから、遼太郎さんに嫌われちゃったってことですか……?」
桜子は震え声で言って、顔を伏せる。ヤバい、泣きそうだ……
遼太郎は腕組みして首を傾げた。
「いや、どっちかと言うと、桜子の方が俺に話し掛けてこなくなったんだよな」
「へ……?」
桜子が顔を上げると、遼太郎が人差し指で鼻と口の間を擦った。桜子は気づいていたが、遼太郎のクセらしかった。
(遼太郎さん、手ぇ大きくて指も長いなあ……いや、今はそんなこと考えてる場合じゃない)
「自分で言うのも何だけど、俺ちょっとオタクっぽいとこあるからなあ。桜子はそれがイヤっぽいんだよな。そうなんじゃないのか? あ、今はわからないか」
遼太郎が少し自嘲的に笑ってそう言うのを聞いて……
(何やってんだあああっ! 桜子、てめえコラァ!)
桜子は心の中で、自分の知らない自分に怒号を浴びせていた。
(何がオタクっぽくてイヤだ、アホおおお! 多少オタクなとこ差っ引いても、たとえ美少女フィギュア集めてて時々舐めてたとしても、遼太郎さんのルックスでチャラだろ! お釣り来るだろ!)
来ません、それはオタクではなくてヘンタイです。遼太郎も妹の心の中で、とんだ風評被害を受けているとは夢にも思わない。
(そんなしょーもないことで、この超カッコイイお兄ちゃんと口きかないとか、桜子お前ホント、何やってんだよお。折角ひとつ屋根の下に暮らしていて、今までどんだけのチャンスをフイにしてんだよー……)
どんだけのチャンスもありません、兄妹でしたから。
遼太郎は密かに煩悶する桜子に、ちょっとニヤッとして言った。
「まあ、小さい頃は“お兄ちゃんお兄ちゃん”って、結構懐いてなんだけどなー」
(それだッ!)
桜子の目がギラリと光った。それって関係修復の糸口っ!
「どこ行くにもついてきてさ、夜も一緒に寝るって布団に潜り込んで来たりさー」
「遼太郎さ……布団っ?!」
勢い込んで前にのめった桜子は、顔面にきれいなカウンターパンチを食らった。
(違う、桜子落ち着け。今はとにかく関係をリセットして修復することだ。“布団”とか“一緒に寝る”はいずれその内、後だ後……)
自分に言い聞かせつつ、
(いずれ、その内ぃ~///)
頬がだらしなく緩む。
桜子はぶんぶんと頭を振って、改めてぐぐっと身を乗り出した。
「あのっ、遼太郎さん!」
「うん?」
思い出話を傾けていた遼太郎は、妹の真剣な眼差しに口を閉じた。
「その、ですね……」
桜子はごくっとつばを飲み込む。
「これからは、その、昔みたいに仲良くしてもらっていいですか……?」
語尾を震えさせて何を言い出すかと思えば、遼太郎は拍子抜けする。
「ああ……まあ、そりゃあ……兄妹なわけだし」
そう答えた瞬間、桜子の顔がぱあああっと輝いた。
「本当? 嬉しいっ///」
両手をきゅっと胸元で合わせて、妹が兄に向ける顔ではないような気がした。
さて、桜子はこほんと咳払いして、また真面目な顔を遼太郎に向けた。
「では……遼太郎さんにもうひとつお願いがあります」
「はい、何でしょう……?」
若干引きつつ遼太郎が促すと、桜子はまた顔を赤くしつつ上目遣いになった。
「遼太郎さんのこと、“お兄ちゃん”って呼んでもいいですかあ///」
「いや、それが普通だから!」
物静かな遼太郎がさすがにツッコんだ。桜子は指を組んでもじもじとこねくりながら、
「だって、遼太郎さんのこと会ってすぐ“お兄ちゃん”って呼ぶの、何だか恥ずかしいじゃないですかあ///」
「いや、妹から名前に“さん”付けで呼ばれる方が、よっぽど照れ臭いよ?」
遼太郎が呆れて手を振ると、桜子はきょとんと首を傾げて……
「……“遼太郎さん”///」
「どーいうことだよ?!」
遼太郎が更にツッコむと、桜子は組んだ手を唇に当ててクスクス笑った。
(うわあ、気持ち悪い……)
と、桜子はすっかり冷めたコーヒーカップをひと息にぐっと呷って、すっくと立ち上がった。
「えっと、あたし、部屋に戻りますね」
「あ、ああ……」
「変なこといっぱい言って、ごめんなさいっ///」
「それな」
ぴょこんと頭を下げると、空のカップを両手で抱くようにして、桜子は妙にぎくしゃくした足取りでドアへ向かった。
ドアノブに手を掛けて、ちらっと肩越しに振り返って……
「……“お兄ちゃん”///」
「ホントにどーしたんだよ、お前?!」
桜子は真っ赤になって慌ててドアを開き、逃げるように廊下に出た。
「ちょっ、ちょっと呼んでみたかっただけですっ! おやすみなさいっ!」
「まだ8時だよ?!」
パタンとドアが閉まり、パタパタという足音が、隣のドアを開けるのが聞こえた。
遼太郎はしばし呆気に取られていたが、テーブルからカップを取り上げ、
「あいつ、頭でも打ったのか?」
ぬるくなったコーヒーに口をつけた。
「ああ……打ったのか……」
**********
部屋に戻った桜子は、ドアに背を預け、遼太郎の前では取り繕っていた(と本人は思っている)顔面筋肉を完全に解き放った。それは緩んでいるという段階を超えて、もはやアヘ顔に近い。
桜子は踊るような足取りで、カップを机に置き、挙句くるっと一回転したものだから、周りに小鳥が飛んでいればディズニープリンセスかという勢いである。小鳥はともかくハートは飛ばしながら、桜子はベッドにぼふっとダイブした。
隣室からガタッと物音がしたことには気づかなかった。
仰向けに転がって、桜子は両手をチョキにして胸の前で指を合わせ、ぐにぐにとさせた。いや、その顔でダブルピースはダメだ。
「……くふっ……えへへ、ふへへへへ……///」
ああ、この妹さんホントにもうダメだ。
(超進展したなあ、遼太郎さんとの仲……///)
枕元のクマさんに手を伸ばし、ぎゅうっと抱き締める。
盛大にやらかしたようにしか見えなかったが、本人的には手応えを感じたらしい。
(「お兄ちゃん」「桜子」なんて呼び合う仲になっちゃって、うへへ///)
兄妹的には普通です。
(“仲良し兄妹”から、後一歩で“ラヴラヴ兄妹“にっ///)
一歩の幅がデカい。クマさんのウエストが、抱き締められ過ぎて可哀そうなくらいひしゃげてしまっている。
と、急に真顔になって、クマさんを持ち上げ、見つめ合う。
(いつかは「遼太郎さん」「桜子」と呼び合うようになっちゃたりして)
確かさっきまではそうだったような。
「……桜子」
「遼太郎さん……///」
キリッとした声で“お兄ちゃん(熊)”のアテレコをして、桜子はにへらあっと顔を崩し、うつ伏せに転がって布団に顔を埋め、足をバタバタさせる。隣から、またガタンと物音がした。
(とか言ったりして、言っちゃたりして~、きゃあ~///)
放り出された“お兄ちゃん(熊)”が、床にスンッとした顔で落ちている。
ふと、足がぴたりと止まった。
(一緒の布団で寝る……?)
また余計なことを思い出した。
(え、いつから……今夜から?)
かつてない真剣な表情を枕に押しつけ、
(いや、さすがに“さっきの今”はないよね……ないわ、桜子。やっぱり“そーゆーこと”はちゃんと段階を踏んで、焦っちゃダメよ……)
かつてないダメなことを考え込む。
(兄妹って、いつ頃から一緒に寝るようになるのかな……)
一般的には、“いつの頃からか一緒に寝ないようになる”ものだ。
(一緒に寝るのと一緒にお風呂入るのって、どっちが先だろ……?)
(“寝る”の意味次第かー……)
桜子さんはあんまりにもあんまりなことを熟考した末に――……
そのまま寝オチした。
“お母さん”が「お風呂入りなさいー」と声をかける頃には、幸せな夢でも見ていたのか、枕がヨダレでべっちゃべちゃになっていたそうな。