氷の貴公子は愛しい彼女を甘く囲い込む
 氷のように冷たい声。凍った言葉の欠片が胸に刺さったような気がして無意識に両手で二の腕を抱えるようにして思わず後ずさった。
 
 すると綾の気配に気づいた海斗が振り返り、スマートフォンを耳に当てたまま驚きに目を見開く。
 すぐに慌てた様子で「では、失礼します」と電話を切ると、ドアを開け、綾に近づいてくる。

「綾……今の?」
 
 普段あまり慌てることの無い海斗が、珍しく動揺しているように見える。
 そのことで綾は彼が後ろめたい気持ちを持っていることを確信出来てしまった。
 
 この人は、私に、嘘を付いていた……騙していた。
  
「海斗さんは……私を愛人にしようと思ったんですか……?」
 
 綾は海斗と距離を取るように後ずさりながら、絞り出すように言う。
 自分で言葉にする事で痛みを実感し、胸に刺さった欠片から、徐々に血がにじんでいくようだ。
 
「綾、何を言ってるんだ?そんなわけ……」

 海斗が言いながら綾に手を伸ばす。

「だって、私に嘘を付いてたんでしょう?騙していたなんて、酷い!」

 自分でも驚くような大きな声に、海斗の顔が強張り、触れようとした手がビクリと止まる。
 
 大きくて優しいその手に触れられるのが好きだった。今までは。
 
「……ごめんなさい、立ち聞きして。でも私はそういう意味での恋人や、パートナーにはなれません」
 
 動きを止めたままの海斗は反応が無い。綾は無言で近くに置いてあったバックを掴む。
 
 我ながら素早い動きで、広いスイートルームの出口を見つける事が出来た。
 ただここから立ち去りたいという思いに駆られ、転がるように部屋から出る。背後でドアが閉まる静かな音が聞こえた。

 ちょうど待機していたエグゼクティブフロア専用のエレベータに乗り、あっという間にビルの外に出る事が……できてしまった。
 
 海斗が追って来たかどうかは分からない。追おうとも思わなかったかもしれない。
 
 朝の通勤ラッシュが少し落ち着いてくる時間帯。
 夏が終わりを告げる季節の抜けるような晴天だった昨日と違って、朝からどんよりと曇るヒルズの空を見上げる。
 
 胸が、苦しい。
 
 信じられない、昨日からの夢みたいな幸せな一日から急転、こんな最悪な朝を迎える事になるなんて。
 
 思えば、昨夜恋人になって欲しい、パートナーになって欲しいとは言われたが『好きだ』という言葉を貰ったわけでは無かった。

 だから、そういう事なのだ。
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