【番外編】ロマンスフルネス
しかし、当主と自分は友人関係ではない。
三年前、当主の代替わりで旧当主派と新当主派が争っていた頃、一度は旧当主の命令で澪音を失脚に追い込もうとしたこともある。当時は澪音の周りにいた無数の敵の一人だった。
しかしその企てを見破られ、ものの見事に屈伏させられた後、真嶋家の解放を条件に寝返るよう交渉…というか半ば脅しをかけてきたのがこの澪音である。柔らかな物腰は澪音のほんの表層に過ぎないのだ。
それ以来、澪音の手駒の一人として仕えることになったのだから、この関係性は明白に主従関係である。過去の行いは水に流せというのはあまりにも都合の良い考えだ。
「私はあなたの犬ですよ」
「…えーっと、ナツがそういう陰口を言われがちなことは知ってる。悪いとも思ってるけど。」
「気にしてません」
「ちょっとは気にしろ。ナツの顔でそういうこと言うとほんっと変な感じになるんだからね?
だいたい犬ってもっと可愛いんだよ、君みたいに辛気くさくないの」
「そうですか」と返事をすると「わかってるのかなぁ」と呆れられる。
確かに自分には、世の中に分からないものが多過ぎる。白と黒に明確に分かれるもの以外は、全てが手に余る。
「まあ、今回の件はひとつ貸しで構わないよ。
もうすぐ寒月祭もあることだし、ちゃんと龍笛の練習しといてね。君の演奏は凶器も同然なんだから」
寒月祭。
この世で一番聞きたくない言葉を耳にした夏雪の表情が曇る。
「素人ですから。ピアニストを満足させる音を求められても困ります。」
「あははっ、そんな複雑なものナツに求めてないよ。僕は子供のリコーダーだって楽しんで聞けるの。
でもナツのはダメ。あんなの耳元で聞かされたら拷問だよ。精神崩壊する」
「なんと」
これまで自分の演奏が当主に対してそこまで酷い行いをしていたとは知らなかった。
「しかし、そもそもが無意味な催しです。聞きたくないなら、当主の権限で寒月祭を廃止すれば良いじゃないですか。」
「ダメダメ。各方面の賓客も楽しみにしてるんだよ。商談のきっかけに役立っているのも知ってるでしょ。あれの経済的価値は無視できないよ。」
「宴席から仕事に繋げるなど、旧時代のやり方です。」
「そうだね。でも僕は古いものすべてが悪いとは思わない。
寒月祭でナツの心中が穏やかじゃないのはわかる。君に辛い役割を強いていることもね。
けど、あれの本質はアートだ。ナツを苦しめるものではないはずだよ」
当主に気遣うように微笑まれて、夏雪は自分が子供じみた不平を漏らしていたことを自覚した。
情けない。真嶋家を継ぐ者として、責任を果たさねばならないと分かっているはずなのに。
「ご心配には及びません。樫月の名に恥じないよう精進します。」
「それでいい。期待してるよ。」
「じゃあ、またね」と無邪気に手を振る当主に深々と礼をした後、夏雪は特大のため息をついた。