いつか夏、峰雲の君
——真っ白のつば広帽子を被った夏希を乗せ、車いすは夏草を薙いでいく。
地球の自転が太陽を昇らせ、ただ永遠と降り注ぐ鮮やかなる光が僕たちの肌を貫くのだ。
酷暑。僕は車いすに括り付けた水筒を引き抜いて夏希の手に渡す。
それは幾百年とこの村を支えてきた、摂氏16度の湧き水。彼女は山がくれた恵みをほんの少しだけ口に含み、ゆっくりと喉へ流し込んだ。
汗だくの僕とは対照的に、彼女はほとんどそれをかかない。日に焼けることもない。
「東京の暑さに慣れてしまったから」と彼女は笑うが、それが優しい嘘だと無知な僕でも分かっていた。
僕は彼女が差し戻した500ミリリットルの水筒を受け取り、それをあるべき場所に戻そうとする。
手作りの水筒入れ。ぽっかりと空いた麻柄の巾着袋はその口を開いて、それを待っのだ。
「登吾くんも飲んだ方がいいよ、多分暑いと思うから……」
その時、か細い彼女の腕に力が込められるのを感じた。
結露に塗れる小さなブリキの水筒はその手を離れることなく、僕と彼女を繋ぐ一本の線の一部となっていたのだ。
一瞬、夏の閃光に焼かれる様に、僕の思考は真っ白に塗りつぶされる。それを覚ます様のは、やはり夏希の一言——
「……いいから」
けたたましく恋を呼ぶ蝉声。確かに降り注ぐ直射の日光。
けどその時その瞬間だけは全てを忘れ、静寂が響く凪の中にいるような気がした。
すでに開けられた水筒の口が僕を待っている。ゆっくりと唇を添え、それを口に……。
なんてことはない。それは十二年間飲み続けた、いつもの味の湧き水だ。
「……暑いね」
土手に伸びる影が、穏やかに縮んでいく。
吹き出た汗を腕で拭うと、その言葉が自然と喉の奥から漏れていた。
優しく流れる川のせせらぎは、高鳴る僕の思い違いをゆっくりと、ゆっくりと洗い流していく……