いつか夏、峰雲の君

「いいに決まってるだろ、夏希が病気になったら大変だ。神様だって許してくれるよ」


 嘘である、僕は内心怖くてたまらなかった。屋代の中には幾十もの白い狐の面がぶら下がり、僕達に睨みを効かせていたからだ。


「知ってる登吾君? お稲荷様って祟り神なんだよ?」

「なんで今そんなこと言うんだよ!?」


  強く強く降りしきる雨滴が、イチョウ並木を走り抜ける。

 そこに放り投げられた車いすはもうずぶ濡れで、僕達の間にはただバチバチと銅板屋根がその身を清める音だけが響くだけ。

 曇天は確実に土地の熱を奪っていくのだ。どれくらいの時間が経ったか。いつの間にか、止まぬ雨へと見上げる景色が自らの吐息で白んでいる……


 やがてこの雨が止まないのではと、そこはかとない不安が僕の胸にくすぶり始めた頃、夏希はか細い両足に力を込めてふらふらと立ち上がる。


 雪のように冷たい彼女の手が僕の指をすり抜けると、彼女は屋代の奥へと座るのだ。崩れてしまった正座姿。それでも夏希は背筋を伸ばし、手を叩く——


「ごめんなさい神様、どうか登吾くんを許してくれませんか——?」


  一人稲荷に祈る彼女の言葉。それを聞いた瞬間、僕は居ても立ってもいられなくなったのだ。


「神様ごめんなさい! 僕が悪いんです、だからどうか夏希だけでも帰してあげて下さい!」


 弾かれるようにそこに座った僕は、痛いほど両手を合わせ頭を下げた。


 嫌がる夏希をここに連れてきたのも、神社の屋代をこじ開けたのも全て僕だ。悪いのは全部僕だから、罰が当たるのは僕だけで十分だから……


 どのくらいの間、二人で手を合わせていたのだろうか。


 無情にも降る雨の中、僕達は涙を抑えることが出来なかった。


 ただ二人で神様に向かってただ許しを請うことしか、僕たちには……。


 その時だ。叩くような雨音の中、甲高い獣の鳴き声が僕たちの意識を現実に戻したのは。


「……狐?」


 目の前に掲げられたご神体の鏡の向こう。そこには、まるで雲のように輝く白を纏う狐が一匹、ちょこんと僕たちを見つめていた。


 白狐、それはまるで、屋代に飾られた面の様——


「あれ……?」


  だが振り返ると、そこに白狐の姿はなかった。もう一度鏡を覗いても、そこには自分の顔が映るばかり。


 寒さに幻覚を見たのか、それとも文字通り狐に化かされたのか。もしくは、まさか本当に……


「いた……よね……?」


不思議なことに、夏希も同じ狐を見ていたのだから……

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