いつか夏、峰雲の君

「夏……希……?」


 そこにいる夏希は、夏希ではなかった。


 24mmのガラス板。それが隔てる無菌室のベッドの上に、彼女は変わり果てた姿で眠っていたのだ。


 まるでカラスに襲われたかの様に痩せこけた姿。すべての肉を失い、それでも足らず内臓まで。髪の毛ですら、一本も残らずに……。


 僕はそれが夏希だと分からなかった、分かりたくなかった。


 その瞬間僕の心に生まれた断層は瞬く間に広がり、多くのものが奈落へと吸い込まれていく……。


 気が付けば僕の心に居座っていた巨大な白は、虫に食われたかのように姿を消していた。


 残ったものは何もない。ただ虚無だけがそこに広がっているのだ。


 全てを失った気がした。その瞬間僕の五感は意味を失い、意味もなくふらふらとその足は屋上へと向かう。


 もしかしたら火に飛び込む虫のように、眩い光を求めたのかもしれない。もしくは、夏希の背中を追いかけたかったのかもしれない。


 ただ一つだけ言えるのは、ずるりと階段を死霊の様に踏みしめ、ドアノブに手をかけたこと。


 そしてその扉を開けた先に待っていたのは、底もなく青い空——そしてその果てまで届きそうな一輪の、大きな大きな雲の峰……


全身の力が抜けていくのを感じた。それと同時に目の奥から止めることなどできない悲しみが、喉の奥から焼き尽くすような怒りが。


 嗚咽。僕は泣き、叫び、そして悔いる。


 何も理解していなかったのだ。夏希がどれだけ苦しんでいたのか、夏希がどれほど怖かったのか、夏希がどれほど……


 夏希、君は遠くに行ってしまった。


 あの時の僕たちは確かに隣り合っていたのに、今はもうたった24mmのガラス板ですら超えることが出来ないなんて。


 君に触れたい、声を聴きたい。……もう一度、君と——


 涙が枯れ、喉が壊れようとも、この怒りは止まらない。


 コンクリートをかきむしり、爪が割れそうになった時、その声は聞こえた。
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