いつか夏、峰雲の君
ぐっしょりと湿る寝袋の感覚にうなされ覚醒する。
視界には底のない暗黒が続き、ここはあの世かと冷たい汗が僕の頬を濡らした。
だが、僕はすぐにそれを否定する。ここが黄泉の世界だとするならば、必ずそこには夏希がいるはずだからだ。
彼女はここにはいない。その事実が、未だぽっかりと空いた心の穴を何度でもえぐり返すのだ。
「んだよ、寝れねぇのか登吾? さっさと寝ないと、明日がしんどいだけだぜ」
暗闇、その中で僕ではない男の声が響く。
「起こした? ごめん勝平」
僕の横に転がるオレンジの寝袋。そのファスナーがひとりでに開けられ、亡霊の様に伸びてきた右腕が辺りをまさぐりそれを掴む。
そしてカチリと子気味のいい金具の音と共に、ランタンの明かりが僕たちを包んだ。
「まぁ酸素薄いし寝れねぇのは分かるけどな。どうだ、くそったれた悪夢でも見たか?」
「……いや、いい夢だった。夏希と初めて出会ったときの夢」
「……そうか、まぁ悪い夢より断然ましだぜ!」
そう言って彼は、痛いぐらいに僕の肩を叩くのだ。
昔からそう、田畑勝平は粗雑で乱暴、けど間違いなくいつも僕たちの事を考えてくれる頼れる幼馴染である。
「よっし、寝れねぇなら一仕事やってもらおうか!」
「仕事? こんな時間に?」
「おう、ファンレターの返事を考えてもらう!」
そう言って彼は、大小様々な封筒手紙を十枚ほど取り出した。
「ファンレター?」
「登吾、お前はいつも山を登ることしか考えてねぇ。よーく考えてみろよ? 山を登るのに使う時間は精々一か月、長くても二か月程度。それを年に三回だから四か月と見積もろうか? ほーら残りの八か月はどうやって過ごすんだ?」
「そりゃぁスポンサー様からお金を……」
「そう、スポンサーだ! だがなぁ登吾、世の中そんなに甘くねぇ。世の中への人気や知名度が無いと、なかなか企業は動かねぇんだぜ」
「はぁ……」
「そぉこぉでこのファンレターよ! よりファンに近い登山家をアピールして、バズを狙う訳だよバズを」
確かにお金の話は重要である。僕がこうして山に登り続けれているのも、色々な方の支えがあってこそだからだ。
「そのファンレターは、マネージャーである俺が厳選した十枚だ。丁寧に手書きで書いてくれよ? 五歳の男の子のも入ってるんだからな」
「……ていうか日本に帰ってから書けばいいんじゃない?」
「バカかお前は、重要なのは切手だよ。ネパールの切手なんてそうそう見れるもんじゃねぇ、そこにファンが感動するんじゃねぇか」
そういうものなのと腑に落ちない顔をする僕に、彼はそういうものなのだと念を押した。
「お前が無事に帰ってきたら投函するから、絶対書いとけよ! いいな?」
そう言って彼は再び寝袋に戻っていく。
ランタンの電源はつけたまま愛用のアイマスクを装着して三秒、力尽きたように夢の世界へと旅立っていった。