いつか夏、峰雲の君
  一方僕は、渡された十枚の手紙に途方に暮れる。
 

 彼は簡単に手紙などと言うが、僕は十年もの間それとは無縁な所にいた。


 いや、むしろ遠ざけていた。筆と紙に向き合うたびに、あの時の思い出が蘇る。虚しく、切なく、やるせなく、そして悲しくなるのだ。


 彼女に届かなかった最後の手紙を棺に入れる勇気もなく、捨てることもできず、今もその懐に持ち歩いていた。


 もし彼女が帰ってきたときに、それをいつでも渡せるように……


 とはいえ、ここにある手紙たちには何の罪もない。


 これは僕を慕う様々な人達が僕の事を思い、無事を祈って届けてくれたものに違いない。


 まずは見るだけ見てみようと、その手紙に目を落とす。


『とうごさんへ。ぶじにかえってきて、えべれすとのおもいでをたくさんきかせてください!
息子が大好きなあなたを応援してます! どうか頑張ってください!』


 その手紙たちには、様々な思いが込められていた。


 応援、祈り、激励。それを開くたびに僕の心は締め付けられる。


 何故なら僕は誰かの為ではなく、自分の為だけに山に登っているのだから。


 そして開かれる最後の一枚。そこに書いてある文章は叱責、僕の核心を突くものだった。


『あなた馬鹿じゃないですか? 単独無酸素登頂にこだわるとか、死にに行くのと同じですよ? 頭イカれてると思います。家族の事とか考えましょう』


  不思議と混じっていたネガティブメッセージ。その文字は、不思議と見慣れたものに感じる。


 封筒に目をやると、そこには宛名も切手も貼られていない……。


 何故だろう、僕はその言葉に何も感じなかった。普通の人なら怒りや驚き、悲しみが湧き出してくるものなのだろうか?


 唯一僕の中に生まれた感情があるとすれば、それは疑問だった。自分自身に対する疑問。その手紙は、僕に自己啓発の機会を与えてくれたのだ。


 僕はそれを封筒に戻し、ランタンの電源を切った。


 静寂の中一人寝袋に戻り、そのメッセージの答えを模索する。


 単独無酸素登頂、それは超人のみに許された死の行軍。気温マイナス35、酸素量30%、気圧1/3という死の環境。


 エベレストにおいて、それを乗り越えた人間は両手で数えれるほどだけ。


 その中で、僕が酸素ボンベを背負わないに値する理由は何一つ思い浮かばなかった。


 暗闇の中で、意識が深淵へと沈んでいく。

 どうせなら良い夢が見たかった。高地では睡眠バランスが崩れるので夢を見る事が少ない。それでも、彼女に会えるのは思い出の中だけなのだから……


そうだ、あれは十二歳の夏。僕はあの時確かに、彼女への想いを——

< 7 / 40 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop