ポロン星のクッキー
 ポロン星には、ふしぎな習慣がある。

 3才までに、自分の好きな型のクッキーを焼いて専用の箱に入れる。
 このクッキーは「エポートル」という、とっても貴重な麦からできた小麦粉を使う。

 エポートルで作ったクッキーは、永遠に腐ることがない。
 この小麦粉は3才までに一度きりしか買えない。つまり人生で1回しか作れない。

 自分のクッキーが入った箱を見つめた。
 手のひらに乗るサイズだが、銀で作られていて表面には花の彫刻が入っている。
 これは、両親が用意してくれた箱だ。
 開けてみようと力を入れてみたが、やっぱりビクともしない。

「ごめん、おまたせ」

 フローラがやってきた。
 卒業式のローブは付けたまま、帽子もきちんとかぶっている。
 僕もローブは付けているが、帽子はどこかで無くした。
 そう、今日は僕らが通ったハイスクールの卒業式。

「じゃあ、これ」

 僕は、クッキー箱をさしだした。

「ほんとにするの?!」

 フローラが戸惑いながら、ポケットから自分の箱を取り出した。
 互いに箱を交換すると、フローラは目を見張った。

「うわ!すごい豪華な入れ物!それも、花の彫刻なんて!グラントのご両親って、けっこうセンチメンタルなのね」

 その通り。
 こんなコテコテのクラシックデザイン、ちょっと恥ずかしい。
 フローラの箱は、淡いグリーンのプラスチック製だった。

「じゃあ、開けよう!」

 クッキー箱は、特別な鍵がかかっている。
 2つの箱をくっつけると第一の鍵を開く。
 それから同時に開けないといけない。

「待って!待って!」

 フローラが止めた。

「やっぱり、今開けるのは早いわ!」
「そんな事はないさ!フローラ、僕のこと好きだろう?」
「うん。好きよ」
「卒業式の日にクッキーを開けようって、約束したじゃないか!」
「うーん、でもこの箱を見てたら、軽い気持ちで開けちゃいけない気が……やめとくわ!」

 これが、フローラとの最後の思い出。

 結局、違う大学に行ったフローラとは、だんだんと疎遠になり別れた。

 永遠の愛を誓った恋人同士が、互いのクッキー箱を開ける。
 古くからの習わしだが、これは、はたして意味があるのだろうか?

 一説によると、相手の箱を開けた瞬間、その恋が本物かどうか解るらしい。
 けれど、3才の時に作ったクッキーだ。それを見て何が解るのか?

 ちなみに、どんな形のクッキーを作ったのか、僕は覚えていない。
 星型のクッキーだった気がするが、なにせ3才だ。はっきりとは覚えていない。
 両親に何型のクッキーを作ったのか、何度も聞いたけど教えてくれなかった。

 子供の頃、ズルをして開けようとした事がある。
 当時よく遊んでいた幼馴染で「ジグニー」という子がいた。
 隣の家に住んでいて、年は僕より一つ下だったが、自分の事を「僕」と呼ぶような男まさりな女の子だった。
 ジグニーも自分の型を忘れてしまったらしく、二人でこっそり開けようとしたのだが、父にバレてしまった。
 あの時ほど、父に怒られたことはない。
 僕のクッキーは何型にしたんだろう?気になる。

 大学に入ると、恋はそこら中に落ちていた。
 しかし、クッキーを見せ合うまでには行かない。

「永遠の愛なんて、考えなくていい。僕は自分の型が何だったのか知りたいんだ」

 そう前置きすると、何人かは寸前まで行った。
 でも僕のクッキー箱、花が彫られた銀の箱を見た途端に、どの女の子も怖気づいてやめた。

 まったく、大層なものにしてくれたよ、うちの親は。

 最大のチャンスは大学3年生の時だった。

 相手の名はメイレル。
 栗色の髪に、栗色の目。
 ふっくらした頬と、大きな目がとても印象的だった。

 メイレルは、結婚したらこうでなきゃ!と、ずいぶん前から決めていることがあるらしい。
 子供は5人で、男の子が3人。
 家は大きくて、ピンク色の壁がいいそうだ。
 ピンクの家なんてぞっとする。
 でも、相手がいなきゃ、箱は開けられない。

 箱を開けた場所は、夕日をバックにした砂浜だった。
 儀式は夕日に照らされて、と彼女が決めていたからだ。

 僕らは互いのクッキー箱を交換し、くっつけた。
「カシャン」と鍵が開く音。
 そして同時に開けた。

 彼女のクッキーは「うさちゃん」だった。
 彼女らしいと言えば、彼女らしい。
 僕は、くすりと笑って彼女を見ると、彼女は僕のクッキーを見てわなわなと震えていた。
 どうしたの?と聞く間もなく、彼女は僕の箱をバチン!と閉めると、僕の手から自分のクッキー箱をもぎとり、駆け出して行った。
 ぼうぜんと、彼女の後ろ姿を見つめた。
 何が悪かったのだろう。
 彼女が思っていた形ではなかったのだろうか?

「クッキーを見せ合って振られた男」という噂は、広がっていた。
 すれちがいざまに、皆がクスクス笑うのだ。
 こんなの、あんまりだ。僕はメイレルを呼び出した。

「学校中に言いふらすなんて、あんまりじゃないか?」

 彼女は申し訳無さそうな顔をして話しだした。

「同じ部屋のサリーが……」

 要点をまとめると、あの日の夜、泣いて帰ったメイレルは、同室のサリーって子になぐさめてもらったそうだ。
 そして、そのサリーはとてもお喋りな子だったのを、メイレルは忘れていたらしい。

「ごめんなさい」

 泣き出しそうな顔をしているメイリルを、これ以上怒ることもできない。
 もう一つ、聞きたかったことを聞いてみた。

「僕のクッキーの形は、気に入らなかったのかい?」

 彼女はうつむいて黙っている。

「どんな形だったのかだけ、教えてくれないか?」

 顔を上げた彼女は、首を振った。

「だめよ。結ばれない相手の中身は誰にも言えない」
「知ってるよ。でもそんなの迷信じゃないか」

 しかし彼女は頑なだった。
 何度お願いしても、けっして教えてくれなかった。
 たかだか、クッキーの型を確かめるだけなのに、上手く行かないものだ。

「ごめんなさい。婚約破棄にして下さい」
「婚約破棄! ああ、そういう言い方もできるか!」

 ちょっと、いやかなり反省。
 真面目な子にとって、クッキーは婚約になるのか。

 メイレルに振られて以来、女の子が僕に近づかなくなった。

 ため息まじりに学食で昼食を食べていたら、急に肩をたたかれた。
 この人は、一つ上の学年の……。
 面識はないが、スピーチコンテストで見たことがある。
 確か「オークショット」という名だ。
 眼鏡の奥に見える切れ長の目が、頭の良さを感じさせる人だった。

「君にピッタリのクラブがある」

 クラブ?僕はそれほど運動神経が良いほうでもない。
 断ろうと思ったが、先に言われた。

「自由恋愛クラブっていう、秘密のクラブなんだ。今晩、ミーティングがあるので来ないか?」

 自由恋愛クラブ?見たことも聞いたこともないクラブだ。
 どう答えるべきか考えていると、「9時に迎えに行くよ」そう言って、去っていった。

 その晩、オークショットが連れて来てくれた場所は、旧校舎だった。
 二階建ての、古めかしい木造校舎。
 授業で使われることはないが、小さなクラブや同好会の連中が勝手に使っているのは知っている。
 建物の電気は消えていて、懐中電灯で進んでいく。

 途中、人体標本がドアの前に置かれていて、あやうく叫びそうになった。
 そのドアの上には「サナダムシ研究会」とあった。何を研究しているのだろう?
 廊下を進んでいくと、どこかから人の話し声が聞こえる。
 それは、突き当りにある昔の講堂からだった。
 扉の前まで行くと、話し声ではなく、歓声だとわかった。
 扉は、内側から光が漏れないように暗幕がしてある。
 オークショットの後に続いて、暗幕をくぐって中に入ると驚いた!

 こんな夜更けに、一体何人の学生が集まっているのだろう!
 何十、いや何百だ。
 見たことのない顔が多い。

「今日は、近くの大学5つから集まってる」

 オークショットがそっと耳打ちしてくれた。
 壇上では、どこかの男子生徒が演説していた。

「これは、陰謀でしかない!俺たちは、このクッキー箱があるかぎり、他の惑星人と恋をすることも、結婚することもない!」

 そうだ!そうだ!と方々から声がかかる。
 なるほど、そういう考え方もできるのか。
 確かに、僕はクッキー箱を持っている人を自然と恋愛対象にしている。
 さらに演説は続いた。

「それにだ!もしクッキーを一度食べてしまえば、次はどうする?無いもの同士で付き合う?それもいいだろう!だが、恋愛はもっと自由なはずだ!こんな箱のせいで、俺達の恋がパターン化されてしまっていいのか!」

 確かに、それも言える。二度目や三度目もあっていいはずだ。
 演説をしていた男は、ポケットから自らのクッキー箱を取り出すと、ゴミ箱に投げ捨てた。
 拍手喝采が沸き起こる。
 なんというクラブ、いや、なんという世界だろう!
 僕は、目からウロコが落ちた思いだった。

「それでは、部長が来られましたので、部長のスピーチを!」

 司会進行の人がそう言うと、会場の生徒たちが一斉に立ち上がって拍手し始めた。

「ちょっと行ってくるよ」

 オークショットはそう言って、中央に歩いていった。
 彼が?部長!?
 オークショットはさっそうと壇上に上がると、落ち着いた声で話し始めた。

「ありがとう、諸君。今日は一人の同志を紹介したい。グラント!」

 オークショットが僕を指差したので、会場の人々がいっせいに僕の方を向いた。

「彼は被害者だ。数ヶ月前に、一人の女子生徒と恋に落ち、クッキーを交換した。だが、女は、それを一目見るなり彼を捨てたのだ!」

 会場から「おー」と哀れみの声が漏れる。

「彼は、素晴らしい人物だ。公明正大で慈愛に溢れた青年である。偉大な彼は、恋がやぶれても女を責めることはない。そう!根源的な問題は彼女ではないことを知っているからだ!問題を引き起こしているのは、クッキーなのだ!諸君、我らが被害者に拍手を!」

 皆が割れんばかりの拍手をした。
 オークショットとは今日はじめて会ったので、僕が公明正大かどうか解らないはずでは?と思ったが、拍手を受けるのは気持ちよかった。
 片手を上げて応えると、さらに大きな拍手となった。

 帰り際に、「7月15日0時00分」と書かれた紙をわたされた。
 15日は3日後だ。
 オークショットを探したが、彼は大勢の学生に囲まれていた。
 しょうがない、誰かに聞いてみよう。
 他校の生徒らしい6人グループに声をかけた。

「これって、何だい?」

 一人の女性が答えてくれた。
 黒くて長い髪と、同じく黒いピッタリとした服が似合う綺麗な女性だった。

「それはね、今度の大集会よ」
「大集会?」
「皆でクッキー箱を持ち寄って、盛大に燃やすの!」

 焼くのか!僕は両親からもらった、クッキー箱を思い出していた。

「会場で見かけたら、声かけてね!」

 彼女はそう言って、仲間と去っていった。

 焼いていいものだろうか?
 自由恋愛クラブの考えは、すごくよく解る。
 だが、親から貰った箱でもある。
 それに、まだ中身を確認していない。

 だが、その日はあっという間に来た。
 会場はどこなんだろう?
 疑問に思ったけど、すぐに解った。
 学校の掲示板に、以前にもらった紙と同じ字体で、一行だけ書かれた張り紙がしてあった。

「フェリクス工場跡」

 隣町の潰れた工場だ。
 とりあえず行ってみよう、そう思った。
 イヤになったら帰ればいい。
 それに、あの黒髪の彼女も来ているかもしれないし。

 秘密の大集会は午前0時。
 電車もバスも動いていないので、徒歩で隣町まで行くことにした。
 人影のないメイン道路を歩いていると、後ろから来たマイクロバスが僕の横で止まった。
「集会に行くのかい?」と聞かれたので、うなずくと乗せてくれた。
 車内に入ると、大音量でロックが流れていて、数人の男女が酒瓶を片手に盛り上がっている。
 あの黒髪の彼女もいた。
 しかも!彼女の隣が空いている!
 彼女も僕のことに気づき、隣をすすめてくれた。

「キャスリーンよ。よろしくね」

 彼女はそう名乗り、車の前方を気にしている。

「もうすぐよね?ドキドキするー!」

 その手に、クッキー箱が握られていた。
 赤い金属製の箱だった。
 丸みのあるデザインが、ちょっとカッコイイ。
 待てよ、どうせ燃やすのなら、今開けてもいいじゃないか。
 でも何と言おう?
 考えたすえに、遠回しに言ってみた。

「キャスリーンは、どんな型を焼いたか?覚えてる?」
「えっ?」

 ロックの音で聞こえなかったようだ。
 もう一度、耳元まで近づいて聞いた。

「君のクッキーの型は何?」
「覚えてない!」
「知りたいと思わない?」
「興味ないわ!」

 あっさりと言われた。

「あー!あれが工場跡ね!」

 キャスリーンが指す方向に、大きな建物が見えた。

 工場跡の入口には、屈強そうな学生が見張りをしている。
 大きな建物で車ごと入っていく。
 工場跡と言っても、屋根と壁が残っているだけで、中は何も無いはずだった。
 それがどうだろう、どこから用意したのか?ステージや照明、DJブースまである。
 すでにDJによる音楽は鳴り響き、大勢の学生が身をくねらせていた。

 中央に円になった柵があり、そこにうず高くクッキー箱が積み上げられていた。
 同じマイクロバスに乗ってきた連中は、その山に自分のクッキー箱を投げ込んだ。
 僕は山の前で、じっと自分の箱を見つめた。
 焼いて良いものだろうか?

「グラント、あっちにバーカウンターがある!」

 キャスリーンはそう言うと、僕の手から箱を取り、自分の箱と一緒にポイ!と捨てた。

 それから1時間ほど、僕はキャスリーンや他の仲間と酒を飲み、踊った。
 突然、場内の明かりが落ち、ステージにスポットライトが当たる。
 オークショットがいた。
 鳴り響いていた音楽も、いつの間にか止まっている。

「諸君!自由への炎を燃やす時が来た!」

 次に、中央に積み上げれたクッキーの山にスポットが当たる。
 数人の学生が、山をよじ登り、ガソリンを撒いた。

 10!9!8!

 皆がカウントダウンを始める。

 7!6!5!4!3!2!1!

 0!の声と同時に、火が投げられた。

 クッキーの山が勢いよく燃え上がる。
 おお!という大歓声がまきおこった!
 と、同時に「ウー!」とサイレンの音。
 建物の入口からパトカーや消防車が何台も流れ込んできた!
 パトカーの拡声器から怒号が鳴り響く。

「両手をあげ、その場に座りなさい!繰り返す、両手をあげ……」

 不法侵入に器物破損、僕らの罪は大したこと無かったが、ニュースに取り上げられ、かなり世間を騒がせた。
 集会に参加した生徒は全て退学。
 僕は、大学の寮から実家に戻る羽目になった。

 実家の生活は3日もいれば、退屈になる。
 この小さな街は、僕が大学に行く前と比べ、変わった所など何もない。
 変わったと言えば、隣のジグニーが鼻ピアスを付けていた事ぐらいか。
 家の前でゴミ出しをしている時だった。
 二人乗りのバイクが止まったと思ったら、ジグニーだった。

「グラント?」

 そう声をかけてきたジグニーは、すっかり変わっていた。
 昔から男勝りだったが、レザージャケットに身を包み、紫に染めた頭に鼻ピアス。
 バイクを運転していた彼氏の腕は、僕の二倍はありそうだ。
 なんだこいつ?と言わんばかりの視線で僕をねめつけてくる。

「大学に行ってたんじゃなかったのかい?」

 ジグニーが聞いてきたので、僕は集会の話をした。

「すげえや、オメーがやったのか!あれ!」

 彼氏のほうが驚いている。
 ジグニーが彼氏を止めた。

「バカなことを。親の金で大学に行ったのに」

 ジグニーの言葉に僕はむっとした。

「僕の勝手だろ、君に言われたくないね」
「銀の箱は、燃やしちまったのか?」
「燃やしたさ、パーっとね!」
「……あんなに綺麗な箱を。バカすぎる」

 僕は頭にきたので、話すのをやめて家に戻ろうとした。
 ふと、思い出して、聞いてみた。

「ジグニー、自分のクッキーの型はわかったかい?」

 ジグにーは首を振った。

「アタシのクッキー箱は子供の頃に無くしちまったんだ。忘れたのかい?」

 そうだっけ?すっかり覚えていない。

「はん、それでよく人のことが言えるな」

 言い返してやった。何も言えまい。

 実家で一ヶ月ほど暮らした後、キャスリーンが一人暮らしを始めたと連絡があった。
 遊びに行ったその日には関係を持ち、僕はそこに住み着いた。

 キャスリーンとは、その後、結婚し娘もできた。
 これで、めでたしめでたし、と行けば良かったが現実は違った。
 今から思えば、上手く行っていたのは最初の3年程だろう。
 30を過ぎた頃には、お互いに憎しみ合っていた。
 40で離婚を切り出された時には、開放感のほうが強かった。

 大した財産もない僕は、家も車もキャスリーンに渡した。
 そうすると、実家に帰るしか手はない。
 実家の前に立つと、懐かしさよりも不甲斐なさが込み上げる。
 僕は玄関を開け、声をかけた。

「ただいま」
「おかえり、疲れたろう」

 母が優しく出迎えてくれる。

「父さんは?」
「隣町まで、あなたのベッドを見に行ったのよ。昔使ってたのは小さいだろうって」
「いいのに」

 思わず、ため息が出た。
 男女の愛情とは違い、親の愛ってのは、普遍だ。

 自分の部屋に入ると、そっくりそのまま残っていることに驚いた。
 父と一緒にペンキを塗った青い机。
 本棚は緑。
 ベッドは途中で飽きて、半分まで赤く塗っている。
 本もおもちゃも、当時のまま。
 しかも、綺麗だ。
 母が掃除しているのだろう。
 荷持を部屋の隅に置き、ベッドに寝転んだ。
 ……ほんとだ、足が出る。

 隣町の仕事にありつけた僕は、電車で通うことになった。
 この街でゆいいつの変化は、隣町まで電車が通うようになった事だろう。
 いや、もう一つあった。
 隣に住む、ジグニーの鼻ピアスが無くなっていた。

 夕方、仕事から帰ってくると、玄関脇のポーチに腰掛けているジグニーをよく見かけた。
 赤ワインを片手に、くつろいでいる姿はすっかり中年のおばさんだ。
 鼻ピアスも、紫の頭の面影もない。
 彼女の母親はどうしたのだろう?僕が物心ついた時には、すでに父親はいなかったはずだ。
 居間で本を読んでいた父に聞いてみた。

「父さん、隣の家の母親はどうしたんだい?」

 父は老眼鏡を外すと、少し険しい顔をして答えた。

「お前が大学一年の時に、亡くなったのを覚えてないのか?」

 そうだっけ?覚えがない。

「電話で連絡したろう。試験があるから帰れないと言ってたじゃないか」

 まったく覚えていない。
 ただ、試験というのは適当に嘘をついた可能性が高い。
 それほど熱心に勉強をした覚えもないからだ。
 子供の頃は、よくジグニーと遊んだ。
 でも、ハイスクールに通う頃には、学年が一つ下のジグニーとはあまり話をしていない。
 彼女が大学に行かなかったのは、母親のこともあったのだろうか?

「彼女は、ずっと一人?」
「さあ、どうだかなあ、男が来ていた時もあったが、あまり会話をする機会も無くてなあ」

 自分の部屋に帰って、窓からジグニーの家をのぞいた。
 ここからは見えないが、ポーチに明かりが点いているので、まだ飲んでいるのかもしれない。
 そういえば、以前に話をした。
 クッキー箱は無くしたと言っていた。
 結婚できなかったとすれば、それも関係あるのではないか?

 それから、数日、ジグニーの無くしたというクッキー箱の事を考えていた。
 無くなるものだろうか?
 どのクッキー箱にも、個人識別情報がインプットされている。
 落とし物で警察に届けられれば、まず間違いなく帰ってくる。
 頭が痛くなってきた。
 彼女のクッキー箱を最後に見た記憶は、僕のクッキー箱を開けようと企んだ時だ。
 ……これは、僕のせいではないのか?

 仕事が終わり、家に着くとすぐに父を探した。
 裏庭の畑で作業をしていた父を見つけ、たずねた。

「昔、僕とジグニーがクッキー箱を開けようとした時のこと覚えてる?」
「ああ、そんな事もあったな」

 父はスコップの手を止めて、車庫を指差した。

「あそこに隠れてな、びっくりしたもんだ」
「父さん、あの時、ジグニーのクッキー箱も取り上げたかい?」

 父は首を振った。

「お前のクッキー箱は取り上げたが、ジグニーのは彼女が持って帰ったはずだ。いくら隣人とは言え、他人の娘の箱は取り上げんよ」

 なるほど、それはそうだ。
 もしかしたら?と思ったが違ったようだ。

「それがどうかしたのか?」

 父はいぶかしげな顔をして聞いてきた。

「いや、彼女は、子供のころにクッキー箱を無くしたそうなんだ」
「なんとな。昔、お前たちは森でよく遊んでいた。もしそこでだとしたら……」

 父さんが振り返ると同時に、僕も振り返って森を見た。
 僕らの家の裏には、広大な森がある。
 この中で落としたとしたら、見つからないだろう。

「クッキー箱は嫌いじゃなかったのか?」

 父に唐突に言われ、面食らった。

「ああ、大学の時のこと?もう、忘れたいよ。若気の至りだ」

 本当に忘れたい。
 今から思えば大勢が集まって、大声で言うほどの事じゃない。
 クッキーを使うも使わないも、人それぞれ勝手にやればいい話だ。
 僕はあらためて、父に向き直った。

「父さん、大学を無駄にして申し訳ない。いや、それより、父さん達が買ってくれた銀のクッキー箱を無駄にしたこと、本当に後悔している。」

 いつか、謝らなければいけない事だった。
 父の優しい性格なら、笑って許してくれる。怒られても、もちろんいい。
 そう思っていたが、父はキョトンとしていた。

「……お前、机の引き出し見てないのか?」

 何を言い出したのか、今度は僕がキョトンとなった。

「……まさか!」

 僕は走って部屋に戻った。
 本棚の本やおもちゃは捨てたが、机の中は大学へ入学する際にカラにした記憶があったので見ていない。
 青い机の引き出しを開けた。
 ……僕のクッキー箱だ。
 表面は黒く焦げているが、形は壊れていない。
 そうか、焼けずに残っていたのか。

 その日の夜は、まったく眠れなかった。
 黒くなった銀のクッキー箱は、自分みたいだった。
 子供の頃はピカピカだった物が、今では薄汚れてしまっている。
 けっきょく、このクッキー箱を開けることは、僕の人生に無かった。
 今思えば、僕は自分のクッキーに興味があっただけだ。
 相手のクッキー箱を見たいと思ったことはない。

 喉が乾いて、下に降りると両親は二人揃って深夜番組を見ていた。
 スクリーンの上にしつらえた棚に、僕が生まれた時の写真と、二人のクッキー箱が飾られてあった。
 この二人のような恋愛はできなかった。
 それは自分のせいなんだな、と今さらわかった。

 もはや、自分のクッキーに興味はないが、有効活用できる方法は見つけた。
 仕事が終わり、家の前まで帰ると、隣のポーチにジグニーを見つけた。
 いつもは軽く手を振って終わりだが、今日は、ポーチに上がっていった。

「やあ、ジグニー」
「どうした?グラント」

 ポーチには、一人がけのソファーとテーブルがあり、テーブルにはワインの入ったグラスがあった。

「これ、君が使えないかと思って」

 僕はそう言い、鞄からクッキー箱を出して、テーブルに置いた。

「残ってたのか?」

 ジグニーが驚いて箱を手に取る。

「そうなんだけど、君はクッキーを無くしたと言ってただろ?調べた所、個人識別情報は書き換えができるらしいんだ。」
「アタシが無くしたクッキーを、なんでグラントので代わりにするんだい?」

 確かに、そう思うだろう。
 僕は言いにくかったが自分のせいかもしれない事を伝えた。

「いや……どうも君のクッキー箱を最後に見た記憶が、二人で悪ふざけして開けようとした時なんだ。あれは僕が言い出しただろ?」

 ジグニーは首を振った。

「無くしたのは、あの時じゃないよ」

 違うのか?でも、無くした時がいつなのかは覚えてないと言う。
 僕を気遣っているのだろうか?

「ジグニー、君はまだ結婚もしてないだろ?そしてまだ40だ。この先、チャンスがあるかもしれないだろ」

 ジグニーが苦笑いした。

「アタシにそんなチャンスは無いよ。今まで無かったように」
「そんな事はない。今まで無かったのは、クッキー箱が無かったからじゃないのか?」
「それは違う」
「彼氏は何人かいたんだろう?僕も覚えはある」

 ジグニーがため息をついた。

「彼氏はいたさ。何人もね。ただ、結婚は考えられないんだ」
「クッキー箱が無いから?」
「そうじゃないよ。アタシに好きな人がいたから」

 ジグニーが言う意味が解らなかった。
 彼氏は好きな人じゃないのか?

「ずっと好きな人がいたんだ。胸の奥にね。付き合う程度ならいいけど、そんな女と結婚したら相手が気の毒だろう?」
「どういう事だ?まったく解らないよ。なら、その男と付き合えばいいだろう!」
「そういうわけにも、いかなくてね」
「誰なんだ?僕のしってるやつか?」

 ジグニーは腕を組んで、横を向いた。怒ってるようだ。

「森の剣士だよ」
「はあ?森の剣士って……」

 ハッとして、言葉を失った。
 子供の頃、よくジグニーと森で遊んでいた。
 僕は、腰に木の棒を差し「森の剣士と呼んでくれ!」とよく言っていた。

「ジグニー」

 呼んでも、ジグニーはそっぽを向いたまま、動かなかった。
 二人とも、無言が続き、僕は家に帰った。

 頭が混乱していた。
 ジグニーが?僕のこと?
 それなら、いつでも言うチャンスはあっただろう。
 言えばいいのに。
 言えばいいのに?
 そうなのだろうか?
 若い頃にジグニーに告白されたら、僕はどうしただろう?

 次の日も、その次の日も、ジグニーはポーチにいなかった。
 僕は彼女のことばかり考えていて、会社に行く途中、とんだへまをした。
 電車の中でボーっとしていたら、痴漢に間違えられた。
 目の前に座っていた若い女性の胸をじっと見ていたというのだ。
 その女性の彼氏に捕まり、駅の警備室に連れて行かれた。
 ただし、警備員は事情を聞くと、困った顔をして言った。

「うーん、触ってもないので、痴漢と言えるかどうか・・・」

 僕は、ボーっとしていただけだと言った。
 警備員になだめられながら、その女性と彼氏は出ていった。
 部屋にもう一人、かなり年配の警備員がいて、二人が去っていってから笑った。

「ほほほ、あんなに胸の谷間が見える服を来ていて、見るなと言うほうがおかしいわい」

 僕は、その年配の警備員のほうを向いた。

「それがですね、実は、見てたと言えば見てた、見てないと言えば見てないんです」
「ほう?」
「僕の隣の家に女性がいまして、僕と同じぐらいの中年なんですがね。その女性は今も昔も胸はぺったんこなんです。それを思い出してました」

 年配の警備員は、今度は驚いた顔をした。

「ほう、若くて大きい胸を見ながら、中年の小さい胸を思い出してた、というわけですな」
「そうです」
「かなり惚れ込んどりますなぁ」
「……そうか、そうですね」

 僕はジグニーが好きなのか。
 そう思うと、妙にすっきりした。

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