一夜限りの恋人は敵対企業のCEO⁈【後日談有】
 ネイトがタブレットの電源をオフにした。
 彼のご家族は動画配信で、ヘルガさんの演奏を聴くのだという。
 そうか。時差もあるし、会場はネット禁止だものね。

 五分前のチャイムが鳴ると、外で談笑していた聴衆が会場に入ってくる。
 ネイトが言うとおり、ボックス席はほぼ正装。
 SS席もちらほらと準正装の人たちがいる。

 ヘルガさんは黒い生地にキラキラとクリスタルガラスをつけた、夜空のようなドレスを着ていた。
 彼女が登場した瞬間、スタンディングオベーション。
 しばらく喝采を受け取っていたヘルガさんがす、と手を広げただけで会場はしん……としずまる。
 ピンが床に落ちても聞こえそうな空気のなか、ヘルガさんが椅子に腰掛け、鍵盤の上に手を乗せた。

 今日の演目は
 ドビュッシー :月の光
 ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
 ショパン :スケルツォ 第2番 Op.31 CT198 変ロ短調
 他。

 ヘルガさんは第一音から私たち聴衆を魅了した。
 ウイーンで生演奏を聴いたときより、さらに円熟味が増し、彼女の指から光の粒が生まれては弾けていく。

 音が体に染み込み、幸福が体を満たす。
 知らず、震えていたらしい。
 ぎゅ、とネイトが手を握ってくれる。
 私たちは指を絡ませあい、舞台のヘルガさんを見つめた。

 夜のとばりにつつまれた世界を、地上に降りてきた月光が青白く染めていく。
 豊かで、傷ついた心を浄化していく音。
 悲しみは癒され、喜びは静かに深く。
 なにもかもが完璧な夜。

 最後の一音の余韻が去っても、しばらく動けない。
 やがて、一人また一人となにかに誘われたように立ち上がる。
 感動を拍手で表す以外に出来なかった。

 ヘルガさんは神々しい表情で、再びスタンディングオベーションを受け止めていた。
 私もめちゃくちゃに手をたたきながら、涙があふれて止まらなかった。
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