一夜限りの恋人は敵対企業のCEO⁈【後日談有】
 あご当てがないから、ハンカチをあてないと顔択がついちゃう。
 ポーチからハンカチを取り出そうとして、落としてしまった。
 ネイトが屈んで拾ってくれる。
 膝まづいて、ハンカチを差し出してくれた。

「……ありがとう」

 声も手も震えてる。
 万感の思いを込めた五文字の音を、ネイトは微笑んで受け止めてくれた。

 何年も何十年もかけて乾かした木材にニスを重ね、数百年分の音を吸い込んできた楽器。
『人の手を経た楽器は、クセがついていて扱いにくい』という人もいる。
 そうかもしれない。
 けれど、ヴァイオリンを中学生の時に買ってもらって以来、毎日弾いて下手なりに音を浸みこませてきた。
 私の楽器ですら、乾燥しつつあり間違いなく今の方が鳴るようになっている。

 音程を調節する。
 ああ。
 新しい楽器の音はカーンと澄んでいて、前に高く遠く飛ぶ。
 ストラドはややこもり、楽器の中に丸くなっている気がする。
 人がいないホールは跳ね返すものもなく、吸収するものもない。
 ただ、弓で弦に生ませた音が水紋のように穏やかにひろがっていく。

 弓を構えると、ピアノの前に座ったネイトが私のタイミングをはかっていた。
 目と目を見交わして、うなずく。

 恍惚の時間が始まった。
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