きみが空を泳ぐいつかのその日まで
あこがれ
噴水を出ると、ふたりでその縁に座った。
彼女はスエードのモカシンを、私はローファーをひっくり返す。
ずぶ濡れの私達は、まわりにはどう見えているんだろう。
昨日預かったあの一ページを、カバンのなかにちゃんとしまっていてよかった。
あれまで濡らしてしまったら彼女に合わせる顔がない。
「なんか生臭いね」
みどりさんは他人の目を気にするそぶりすら見せず、濡れた自分の身体を犬みたいにいつまでも嗅いでいた。
風がすこし吹いただけで服が肌に張りついて、体温をじわじわと奪っていく。彼女が濡れる必要なんかどこにもないのに。
優しくされるほど苦しくなって、ごめんなさいという気持ちが喉に張り付いたまま、結局つっかえてしまう。
「あたしのことは気にしないでね。元々他人の目なんて気にするような性格じゃないし、もし風邪ひいたらみーちゃんに移すし」
みどりさんのその言葉は静かな湖面に落ちた一滴の朝露みたいに、弧を描きながら心にゆっくりひろがっていった。
「噴水に落ちると臭くなるって落ちた人にしかわかんない事実だな。濡れるとしばらく寒いけど、寒いのは風邪をひくかもしれないだけのことだしね」
気持ちいいくらい潔くそう言いきって、私の顔を覗き込む。
「ね、そうじゃない? で、風邪ひいたら寝込めばいいんだよ。素直にね、おとなしく」
独り言のように呟きながら、濡らさずにとっておいた自分のカーディガンを肩にかけてくれた。
あの甘くて清潔なにおいに包まれて胸がいっぱいになる。あったかい。でも自分には全然相応しくない。
そうわかっているのにその温もりをみっともないくらいに求めてしまう。
「なんて顔してるの。溺れてるみたいだよ」
さっきからろくに返事もできないでいるのに、みどりさんはただ笑ってくれた。
せめて涙だけはこぼさないようにと空を見上げたら、夕暮れの光を跳ね返した雲がオレンジやピンクにふちどられてた。
空のうえのほうはきっと風が強いんだ。
あっというまに混ざりあった夕刻のすべての色が、きっと夜を目指してる。
いつの間にか輪郭のくっきりとした三日月が、まるで新しい世界のひっかかりを探しているみたいに不安気に揺れている。
ふと、どこからか赤ちゃんの泣き声が聞こえた気がして落ち着きなく空の色とみどりさんが持っているオムツを交互にみた。
「時間なら心配しないで。今日は旦那さんがうちにいるし、これがなかなかの親バカなんだよね」
視線が泳ぎすぎたせいでたぶん心を読まれてしまったんだろう。私とは正反対に、みどりさんの表情にはひとかけらの不安もない。
そのあまりにまっすぐな眼差しのせいで、胸の奥底に鬱積しているものをうっかり口にしそうになる。
ほんとうは、すべてを話してしまいたい。
自分はひとりの人の人生を、命を、でたらめにしてしまったと。そう言ってしまえたら、どんなに楽だろう。
でも、昨日会ったばかりの他人にいきなり懺悔されて彼女はどう思うのか。
きっと困惑させるのが関の山だ、もしかしたら嫌われるかもしれない。
皮肉にも駅前通りのすぐ向こうが、15年前のその事故の場所だった。
舌が乾いてこわばってまるで異物みたいで、とまどって焦って苦しい気持ちだけが胸の内側で厚い層になっていった。
「無理しなくていいよ」
優しくされると下を向いてしまう。
「きっといろんなことがあって、何から話していいのかわからなくなってるだけだよ。話したくなったら何でもいつでも聞くからね」
ささくれた心に彼女の声がしみていく。
それなのにお礼の一言も言えないなんて。
みどりさんはもう立ち上がって、後ろの自販機に向かっていた。
「ねぇ、何か飲も。喉乾いたよね」
明るくそう言ってこっちを見たみどりさんは、あっと小さな声をあげた。
視線は私ではなく、その向こう側に向いていた。
彼女はスエードのモカシンを、私はローファーをひっくり返す。
ずぶ濡れの私達は、まわりにはどう見えているんだろう。
昨日預かったあの一ページを、カバンのなかにちゃんとしまっていてよかった。
あれまで濡らしてしまったら彼女に合わせる顔がない。
「なんか生臭いね」
みどりさんは他人の目を気にするそぶりすら見せず、濡れた自分の身体を犬みたいにいつまでも嗅いでいた。
風がすこし吹いただけで服が肌に張りついて、体温をじわじわと奪っていく。彼女が濡れる必要なんかどこにもないのに。
優しくされるほど苦しくなって、ごめんなさいという気持ちが喉に張り付いたまま、結局つっかえてしまう。
「あたしのことは気にしないでね。元々他人の目なんて気にするような性格じゃないし、もし風邪ひいたらみーちゃんに移すし」
みどりさんのその言葉は静かな湖面に落ちた一滴の朝露みたいに、弧を描きながら心にゆっくりひろがっていった。
「噴水に落ちると臭くなるって落ちた人にしかわかんない事実だな。濡れるとしばらく寒いけど、寒いのは風邪をひくかもしれないだけのことだしね」
気持ちいいくらい潔くそう言いきって、私の顔を覗き込む。
「ね、そうじゃない? で、風邪ひいたら寝込めばいいんだよ。素直にね、おとなしく」
独り言のように呟きながら、濡らさずにとっておいた自分のカーディガンを肩にかけてくれた。
あの甘くて清潔なにおいに包まれて胸がいっぱいになる。あったかい。でも自分には全然相応しくない。
そうわかっているのにその温もりをみっともないくらいに求めてしまう。
「なんて顔してるの。溺れてるみたいだよ」
さっきからろくに返事もできないでいるのに、みどりさんはただ笑ってくれた。
せめて涙だけはこぼさないようにと空を見上げたら、夕暮れの光を跳ね返した雲がオレンジやピンクにふちどられてた。
空のうえのほうはきっと風が強いんだ。
あっというまに混ざりあった夕刻のすべての色が、きっと夜を目指してる。
いつの間にか輪郭のくっきりとした三日月が、まるで新しい世界のひっかかりを探しているみたいに不安気に揺れている。
ふと、どこからか赤ちゃんの泣き声が聞こえた気がして落ち着きなく空の色とみどりさんが持っているオムツを交互にみた。
「時間なら心配しないで。今日は旦那さんがうちにいるし、これがなかなかの親バカなんだよね」
視線が泳ぎすぎたせいでたぶん心を読まれてしまったんだろう。私とは正反対に、みどりさんの表情にはひとかけらの不安もない。
そのあまりにまっすぐな眼差しのせいで、胸の奥底に鬱積しているものをうっかり口にしそうになる。
ほんとうは、すべてを話してしまいたい。
自分はひとりの人の人生を、命を、でたらめにしてしまったと。そう言ってしまえたら、どんなに楽だろう。
でも、昨日会ったばかりの他人にいきなり懺悔されて彼女はどう思うのか。
きっと困惑させるのが関の山だ、もしかしたら嫌われるかもしれない。
皮肉にも駅前通りのすぐ向こうが、15年前のその事故の場所だった。
舌が乾いてこわばってまるで異物みたいで、とまどって焦って苦しい気持ちだけが胸の内側で厚い層になっていった。
「無理しなくていいよ」
優しくされると下を向いてしまう。
「きっといろんなことがあって、何から話していいのかわからなくなってるだけだよ。話したくなったら何でもいつでも聞くからね」
ささくれた心に彼女の声がしみていく。
それなのにお礼の一言も言えないなんて。
みどりさんはもう立ち上がって、後ろの自販機に向かっていた。
「ねぇ、何か飲も。喉乾いたよね」
明るくそう言ってこっちを見たみどりさんは、あっと小さな声をあげた。
視線は私ではなく、その向こう側に向いていた。