きみが空を泳ぐいつかのその日まで
「神崎さん?」
知っている声にハッとして振り向いたら、ちょっと離れたところにオムツを提げた久住君が立っていた。
「なにその格好……」
目の前の景色を再確認するかのような、大きなまばたき。彼が一瞬呼吸を整えるような素振りを見せた気がしたけれど、すぐにいつもと変わらない調子で声をかけてくれた。
「もしかして噴水に落ちた? いやいや。ない……ないわ」
「そんなに、笑わなくても……」
「ごめん、だって」
久住君が明るく笑うから、やっと声が出た。今はただ、ひたすらに恥ずかしい。
「派手にやったね。びしょびしょじゃん、寒そう」
彼のその声で、指先が冷えていることに気がついた。首にまとわりつく濡れた髪の不快感も、爪先の感覚をなくしていることにも。みどりさんが、そっと姿を消していたことにも。
「自販機の前に女の人……スカートが濡れてる人がいたはずなんだけど、見てない?」
「んー、女の人ならいたけど」
ふたりでそっちを見た。自販機は三機並んでいて、前を通りすぎる人も飲み物を買いに来る人もあたりまえにいる。
「その人と一緒にいたの?」
「うん。一緒に、ここに落ちてくれたのに」
そう呟いたら、彼女に愛想を尽かされたような気がした。そんなわけないのに、そう思ってしまう自分がいた。
「すげー男前な人じゃん。まだそのへんにいるかもね。名前は?」
隣に座った久住君は、着ていたパーカーを脱いで肩にかけてくれた。
冷えきって感覚をなくした体が服の中にこもった彼の体温で息を吹き返すみたいだった。それなのに、彼女の名前を口にしようとすると、息が詰まる。
「なに? もっかい言って」
久住君は耳を寄せて、声にならない声を聞き取ろうとしてくれる。
「みどり、さん」
でも喉から出てきたのは声と呼ぶにはあまりに粗末で、どちらかというとすぐに消えてしまう呼気みたいだった。
数ブロック先から微かに聞こえてくる歩行者用信号機のメロディにさえ消されてしまいそうになる。
「みどりさーん、どこっすかー!」
それなのに彼はそれをちゃんと聞き取って、私の代わりに彼女の名前を大声で叫んでくれた。
「みどりさんまで、なんでいなくなるんだろ」
彼女の名前が口からぽろりとこぼれたら、涙が堰を切ったみたいにあふれだした。
「ど、どーした!」
「ごめん……ごめんね」
きっと何度謝っても足りないんだ。
だって大好きな人はみんな離れていく。恩人にいたっては亡くなってしまってる。自分と関わるとろくなことがない。私は疫病神なのかもしれない。
ガマンして押さえ込んでいたぜんぶの気持ちがあふれだしてしまう。
「きっとなんか理由があるはずだよ」
久住君は苦笑して、だらしなく泣きつづけることしかできない私の背中に手を添えてくれた。
その温もりで涙はいきおいを増して、息もできなくなった。これじゃ、久住君が私を泣かしてるように見えてしまうのに。
ついさっきまで弟くんを抱っこしていたのか、彼のそばにいるとあかちゃんの匂いがする。その手が、ぐずってるあかちゃんのちいさな体に優しく触れているのがはっきりと見えるような気さえした。みどりさんの手よりずっとおおきな手。
「このままだと風邪ひくからさ、とりあえず行こう? そんなんじゃ電車にも乗れないだろ。うちすぐそこだからタオルくらい貸せるし」
「……うん」
用事があって家を出たはずなのに、彼は私の自転車を押して、今きたばかりの道を未練なく引き返してくれた。
知っている声にハッとして振り向いたら、ちょっと離れたところにオムツを提げた久住君が立っていた。
「なにその格好……」
目の前の景色を再確認するかのような、大きなまばたき。彼が一瞬呼吸を整えるような素振りを見せた気がしたけれど、すぐにいつもと変わらない調子で声をかけてくれた。
「もしかして噴水に落ちた? いやいや。ない……ないわ」
「そんなに、笑わなくても……」
「ごめん、だって」
久住君が明るく笑うから、やっと声が出た。今はただ、ひたすらに恥ずかしい。
「派手にやったね。びしょびしょじゃん、寒そう」
彼のその声で、指先が冷えていることに気がついた。首にまとわりつく濡れた髪の不快感も、爪先の感覚をなくしていることにも。みどりさんが、そっと姿を消していたことにも。
「自販機の前に女の人……スカートが濡れてる人がいたはずなんだけど、見てない?」
「んー、女の人ならいたけど」
ふたりでそっちを見た。自販機は三機並んでいて、前を通りすぎる人も飲み物を買いに来る人もあたりまえにいる。
「その人と一緒にいたの?」
「うん。一緒に、ここに落ちてくれたのに」
そう呟いたら、彼女に愛想を尽かされたような気がした。そんなわけないのに、そう思ってしまう自分がいた。
「すげー男前な人じゃん。まだそのへんにいるかもね。名前は?」
隣に座った久住君は、着ていたパーカーを脱いで肩にかけてくれた。
冷えきって感覚をなくした体が服の中にこもった彼の体温で息を吹き返すみたいだった。それなのに、彼女の名前を口にしようとすると、息が詰まる。
「なに? もっかい言って」
久住君は耳を寄せて、声にならない声を聞き取ろうとしてくれる。
「みどり、さん」
でも喉から出てきたのは声と呼ぶにはあまりに粗末で、どちらかというとすぐに消えてしまう呼気みたいだった。
数ブロック先から微かに聞こえてくる歩行者用信号機のメロディにさえ消されてしまいそうになる。
「みどりさーん、どこっすかー!」
それなのに彼はそれをちゃんと聞き取って、私の代わりに彼女の名前を大声で叫んでくれた。
「みどりさんまで、なんでいなくなるんだろ」
彼女の名前が口からぽろりとこぼれたら、涙が堰を切ったみたいにあふれだした。
「ど、どーした!」
「ごめん……ごめんね」
きっと何度謝っても足りないんだ。
だって大好きな人はみんな離れていく。恩人にいたっては亡くなってしまってる。自分と関わるとろくなことがない。私は疫病神なのかもしれない。
ガマンして押さえ込んでいたぜんぶの気持ちがあふれだしてしまう。
「きっとなんか理由があるはずだよ」
久住君は苦笑して、だらしなく泣きつづけることしかできない私の背中に手を添えてくれた。
その温もりで涙はいきおいを増して、息もできなくなった。これじゃ、久住君が私を泣かしてるように見えてしまうのに。
ついさっきまで弟くんを抱っこしていたのか、彼のそばにいるとあかちゃんの匂いがする。その手が、ぐずってるあかちゃんのちいさな体に優しく触れているのがはっきりと見えるような気さえした。みどりさんの手よりずっとおおきな手。
「このままだと風邪ひくからさ、とりあえず行こう? そんなんじゃ電車にも乗れないだろ。うちすぐそこだからタオルくらい貸せるし」
「……うん」
用事があって家を出たはずなのに、彼は私の自転車を押して、今きたばかりの道を未練なく引き返してくれた。