きみが空を泳ぐいつかのその日まで
チビのくせに、何をするにも全力。
人差し指を差し出すと、ちいさな手で握り返してくる。
その意外に頼もしい握力で、たぶん覚醒した。

初めてユキの微笑み返しをくらったときの衝撃を、俺は一生忘れないと思う。

それは新生児微笑といって、特に理由のない筋肉の体操みたいなもんらしいけど、きっとあの瞬間に、俺は兄ちゃんになった。

助産師のババァに説教されて、タバコもその匂いを誤魔化す香水も捨てた。

トレードカラーになりつつあった派手な髪色は迷わず海苔みたいな黒髪に変えて、ちっともイケてなかったけど、誰かのために生きるってこういうことなのかなってちょっと自分が誇らしかったりもした。

高校へもちゃんと行くと決めたし、何より家にいることが苦痛ではなくなった。

赤ん坊は漏らすし吐くし泣くし寝てくれないし、意思の疎通もはかれない。

それにちょっとしたことが命とりになる生き物だ。
実際それに翻弄されて母さんはノイローゼ気味だった。

そういう時は父親の出番だって、両親学級の資料に書いてあるのに、うちの仕事バカがまったく戦力にならないから俺が頑張るしかなくて。

ガキの相手はユキだけで精一杯だったから、年の離れた弟のことはだれにも言わなかった。

クラスのやつらが下ネタ交じりでからかうのは目に見えていたし、弟のために更正したんだと思われるなんて心外だし、何かと面倒だと思ったから。

それなのに、あっさり神崎さんに話してしまった。なんのためらいもなく。

「理人はさ、無鉄砲すぎてほんと手に負えないって正直思ってる。あたしは所詮他人だし」

ハッとして母さんの顔を見た。

「だけどね、理人がどこの子でも誰の子でもそんなの問題じゃない。あたしたちにとってあんたはかけがえないの。もうとことん家族なの」

鼻の奥がツンと痛くなった。

「あたしが理人のことを心配するみたいに、葵さんだって助けた女の子のことを大事に思ってたんじゃないかな」
「……うん」

頭のなかではいろんな思いが渦巻いていたけれど、どれひとつとしてうまく言葉になってくれない。

「あんたは……他人なんかじゃないよ」

結局それだけしか言えなくて、彼女の手からひったくるようにスマホを受け取った。
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