きみが空を泳ぐいつかのその日まで
美味しかったよ、ありがとうってちゃんと言えるようにならないと。
それって大事なことだよねって、お母さんならきっと褒めてくれる。

だけど、そんな教えに責められて自分はどんどん卑屈になっていく。

うつむいた視線の先でくるりと桜の花びらがひるがえった。何もかもがキレイな春という季節が、いつからしんどいと感じるようになってしまったんだろう。

ペダルを踏むたびに、自転車は捨てられた子猫の鳴き声みたいな音を立てた。
なんでセンチメンタルになってんだろ。バカみたい。

ようやく駅が見えてきたときだった。改札近くの噴水のまえに、人待ち顔の倉持(くらもち)君をみつけた。

遠くからでも見まちがったりしない。中学のときずっと目で追っていた、憧れの人だったから。

そのすぐ後ろに髪の長い女の子が続いて出て来て、ふたりは当たり前のようにならんで歩きだした。

惰性で進んでいた自転車に、強くブレーキをかける。甲高いブレーキ音が、やけに神経を逆なでする。彼の隣を楽しそうに歩いている女の子が千絵梨だという確信があった。

ふたりの背中が少しずつ遠ざかっていって、ふいに手と手が、触れあったようにみえた。

やっぱり私の選択は間違ってなかった。姉の通う学校やそのルートを避けたのも、うちの中学から進学する子のいない学校を選んだのも一緒に暮らしていないことも、結果的にはすべて正解だったんだ。

たちまち心の奥底からどんよりとした膿が沸いてきた。
それはいつだって自分の中にあってずっと見て見ぬふりをしてきたものだったけど、もうそれを隠しきれそうにない。

明るくて無邪気なこころは、きっとお母さんのお腹のなかで千絵梨がひとつ残らず吸収してしまったんだ。

彼女はインウツでインケンでサツバツとしたものだけをお母さんの胎内に残して生まれて、その残りものを仕方なく抱えて生まれてきたのが、きっと私なんだ。

でも、そんなこともうどうでもいい。
何もかもがバカバカしくなって、がむしゃらに自転車を漕いだ。

ぎゅっと目をつぶる。
だってもう目を開けたくない。
現実を見たくない。
なにがどうなったっていい。

じくじくと膿が広がってゆく音だけが、耳の奥で膨張していくのがわかった。

「バカ、起きろ!!」

切羽つまった声が、止まっていた思考を呼び覚ました。
いったいどれくらいの時間が過ぎていたんだろう。顔をあげて血の気が引いた。

私の自転車は、今にも歩道の縁石を踏み外そうと斜めに走り出していた。

青から黄色に変わろうとしている交差点の信号を目指して後方から突進してきたトラックの側面に、今にも接触しそうだった。

死ぬんだ。
瞬時にそう悟った。
でもその時

「どりゃぁぁぁ間に合え俺!!」

さっきの声が前方から突進してきて、トラックと私との僅かな隙間に猛スピードで滑り込んだ。

何が起こっているのかわからなかったけれど、自転車の主に車体ごと思い切り蹴り飛ばされたことだけはわかった。

自転車のスポークが地面を削る摩擦音が響き、おもいきりアスファルトに放り出された。何回横転したかわからない。

気づくと地面に座り込んでいて、そこは路肩からだいぶ離れた歩道側だった。

「大丈夫? すぐ救急車呼ぶからね!」
「いえあの……だっ、大丈夫です」

年配のおばさんが、深刻そうな顔でわたしの顔を覗きこんでいた。派手に転倒したわりに、ズキズキと痛むのは手のひらくらいなのに。

「そうだわ、あっちの子も!」

おばさんの目線の先には、いあわせた通行人でちいさな人だかりができていた。

「まさか。さっきの男の子……」

あわてて振り返ると、トラックは何事もなかったように交差点を左折しようとするところで、それを確認したら安堵して全身の力が抜けてしまった。

「ダメよ、止血しなきゃ!」
「平気です、受け身しっかり取ったし。運動神経バツグンなんで」

人だかりが割れて、同じ制服を着た男の子が立ち上がるのが見えた。ズボンが破れて、右足の脛の辺りからたくさん血が出ている。

彼は足を引きずりながら、まっすぐこっちへ歩いてきた。
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