きみが空を泳ぐいつかのその日まで
早くさよならしないと。
涙目に気づかれてしまう前に。

「もっとスピード、でない?」
「まさかのスピード狂?」
「そうじゃなくて」
「早く逃げたいんだ? 俺から」
「ちっ、違うよ」
「させるかバーカ」

明るく笑い飛ばすから、私も一緒に笑いたい。でもほんとうはずっと、泣きたい気持ちと闘っていた。

それから駅につくまで彼は一言も口をきかなかった。それがまるで、この弱虫な気持ちがひっこむのを待っててくれてるみたいに思えてならなかった。

だから駅前で自転車を降りると、精一杯笑ってちゃんと前を向いた。

「送ってくれて、ありがとう」

下手くそかもしれないけれど、笑えてると思う。こっそり、でも強く服の裾を握りしめた。

「大阪って車だとこっからどれくらい?」

よくわからなかったから、休憩しながらでもたぶんこのくらい、と曖昧に答える。

「そっか。じゃあはい、これ」

何の脈略もなく久住君が差し出したものは、あの文庫本だった。

雨に濡れて、乾いて、引っ張られ欠けてしまい、捨てられてボロボロになったあの本。久住君はちゃんと、拾って持っていてくれた。

「俺は読んだから」
「私は……」

あの日から彼に返すまで、ずっと手元にあった本。読むべきかどうか、本当はずっと迷っていた。

でも一ページ目をめくればもう後戻りができないと思うと怖くて怖くて、そのまま久住君に突きつけてしまったんだ。

知りたいことも、知りたくないこともきっと書かれている。そう思ったら、たった今彼からそれを受けとる勇気すらなかった。

「別に読めって渡すわけじゃないよ」
「でも……無理だよ」
「預かっててほしいんだ」

穏やかな声でそう言われたとき、また星が瞬いた気がした。

私は大事なものを預かっていた。必ず返さなきゃいけないものだった。
誰にだろう、何をだろう。

「だって、まだわかんないことだらけだろ?」

その通りだった。
私がこの本を探していた理由も、なくなっているページの内容をどうやって知ったのかも、大切なはずの誰かの記憶がないことも、何もかもを投げ出したままで、私は遠くの地へ去ろうとしていた。

「とっくに繋がってたんだよ、俺たち」
「繋がる?」
「そう」

あたしたち繋がってるよって、誰かと笑いあったことがある。

「だから、勝手にいなくなるな」

彼のその言葉が、誰かの柔らかな笑顔とリンクする。
それはたぶん、消えたいだとか死んでしまいたいなんてことばかり考えていた自分に、生きる理由をくれた人。
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