きみが空を泳ぐいつかのその日まで
どうしよう、クラスメートに大怪我をさせてしまった。
その事実にジワジワと責めたてられる。急いでホームに駆け込んでみたけれど、身の置き場なんてどこにもない。

得体のしれないものが、胸のあたりで蠢いている。座りこみそうになるほどの息苦しさも、ぐっとこらえるしかなかった。

こんな所で呑気に電車を待っていたらデート帰りのふたりに遭遇するかもしれない。そう思ったら今度は頭のなかが真っ白になる。

やだよ、会いたくない。
倉持君に会いにきた千絵梨になんか。

耳にイヤホンを入れようとしたけど手が震えてしまう。とにかくスマホをいじろう。誰かの主張やくだらないニュース、なんでもいい、なんでもいいから。

お父さんとお母さんの喧嘩が始まると、だいたいはそうやってしのいできた。整然と流れていく画面を見ていると、どうにか心をフラットに保てる気がして、ベッドのなかでいつも丸くなっていた。

でもそうやって現実逃避しようすればするほど、重苦しい空気が足首のあたりにまとわりついてくる気がしてた。

足枷(あしかせ)をつけられたような感覚。
水かさを増していく水槽のなかにうずくまってるような気持ち。

両親の不仲の原因は自分にもあるとはわかってた。そういうの、空気に混じるから。

ただ、理由を知ろうとは思わなかった。怖かったから。
それを今頃になって後悔しても遅いのかな。

一歳違いの千絵梨とは友達みたいに仲良しだったのにな。
よくおしゃべりしてた。
もちろん倉持君のことだって。

どんな些細なことも千絵梨と分かちあえているつもりでいたのに、いつ頃だろう、あのふたりが付き合っているって噂が流れ出したのは。

そのときは姉に嫌われているともうわかっていたけれど、ただの噂だと思い込もうとした。

でもきっと、現実から目を背けていただけだったんだ。その証拠に今、うやむやな気持ちがずっとくすぶってる。

さっきの後ろ姿を思い出すと胸が痛む。
あんなシーンを見てしまって、何事もなかったように振る舞えるほど物分かりよくできてないよ。

胃のあたりから込み上げてくる苦いものを無理矢理飲み下した。嫌な後味はいつも、いつまでたっても消えてくれない。

「間もなく○○方面行き快速電車が通過致します。黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい」

アナウンスが流れるのをぼんやり聞きながらホームの黄色い線のデコボコに、何気なく足を乗せた。

足裏で自分の体重をちゃんと感じとれることにホッとして、もう片方もゆっくりラインの上に移動させてみた。

私という存在の重さ。
それが黄色の線のうえで気持ちよく足裏を刺激していた。

でも、足からとおく離れた頭のなかでは、そんなものとっぱらってしまえと、ずっと誰かの声がしている。

(とっぱらうって?)
(飛ぶんだよ)
(飛んでどうするの?)
(タッチするんだよ、あっち側に。誰にも気づかれないように。そっと)

小さい頃にした、だるまさんがころんだ、みたいな?

(さぁ今のうち。その黄色い線がスタートラインだ)

言われるがまま、足元を見た。
ほんとだ、大丈夫。足枷なんてついてない。

(だからほら、右足も左足も。
黄色いラインを越えて)

声に導かれ、いつの間にかそこから踏み出していたこともわからなかった。

反対側のホームの看板のなかから、キレイな女優さんが旅に出ようと誘っている。

じっと見入っていると、だんだんそれがお母さんのようにも、千絵梨のようにも見えてきて、目頭がぶわっと熱くなった。
またみんなで旅行できたらな。

言葉にならないこのへんてこな気持ちでも、伝えなければもう一生ふたりに会えないような気がしてくる。
行かなくちゃ。

勇気を出して最初の一歩を踏み出したとき、突然視界が塞がれ足は止まってしまった。

どこか遠いところで上がる悲鳴を、まるで他人事のように上の空で聞いた。

でもそのとたんに何かに弾き返され、思い切りよろけた。誰かにぶつかってしまったらしい。そこには大きなおっぱいがあって……視界いっぱいに鮮やかなグリーンが広がった。

目線をあげると、緑のカーディガンを羽織った若い女の人がこっちを見つめていた。

「ごめんっ、大丈夫?」

優しい声と、柔らかな微笑み。
次の瞬間、突然吹きあげるような強い風が吹いて、彼女の後ろを快速電車が通過していった。

私と彼女はしばらくその風に無言で煽られているだけだった。

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