すばるとしみずのあいだには、しゅっとしてもふもふのおれがいる。
すばるとアマガエル ☆
リビングのソファに座っている後ろ頭を見つけて、すばるはこそりと声をかける。
萩野家には壁掛けの大型テレビがあるが、そもそもプラグが刺さっていない。
画面や音がうるさくて観ていられないと聞いたが、想像だけでもその気持ちはよく分かった。そもそもすばるの部屋にもテレビは無かったし、元々好んで観る習慣もなかった。
壁一面のラックにあるのは本や雑誌の類。
清水が本を読んで待っていると言っていたので、遠慮がちに声を出して呼びかける。
生返事をしながら振り向いた清水はそのままずるずるとソファの背もたれの向こうに消えていった。
「……どうしたんですか、萩野さん」
「…………むり」
「無理?」
「このシチュエーション…………ムリすぎる」
「は?」
近付いてソファを覗き込むと、清水は丸まって両手で顔を覆っていた。
「何してるんですか?」
「もう一回言って」
「はい?」
「『お風呂どうぞ』ってもう一回言って」
「お風呂どうぞ」
「…………さっきと言い方が違う!」
「なんなんですか、もう」
「……ジャージ、緑色なんだね」
「え? ウルフィーの時に見てますよね」
「色までわからなかったから」
人とは見え方が違うという知識をなんとなく知っていたすばるは、ああと息の抜けるようなふんわりした返事をした。
飛び起きた清水はその勢いで背もたれを超え、すばるの手を取ってソファに誘導して座らせる。
冷凍庫からアイスクリームを運んですばるの目の前に置いた。
「アマガエルみたいで可愛いね」
「…………ぷっ。ホントだ、言われてみれば」
デザインで黒のラインと白の切り返しが入って、配色といい、確かにカエルっぽい。
「アイス、溶けないうちにどうぞ?」
「ありがとうございます……萩野さんは? 食べないんですか?」
「俺、甘いの苦手」
「そうだったんですか?」
だからいいのと紙カップのフタを開けると、ご丁寧にスプーンを添えて手渡してくれた。
「食べてるとこ見たい」
「……え、やだ……」
「…………風呂上りのすばるさん……いい匂い」
「やめて下さい、すごく気持ち悪い」
「んー……安定の憎まれ口かわいい」
「うわぁ…………怖い……」
「お兄さんにもらったシャンプー使ったの?」
「え? はい……あ、お風呂場に置かせてもらいました」
「どうぞどうぞ……高そうだよね、あれ」
「あ! やっぱりそう思いますよね?!」
硬くて密封度の高い箱の中身は、シンプルなデザインのボトルが入り、説明書の札が添えてある。
ボトルに書いてあるのは商品名と思われるものだけ、製品の成分内容や能書きはその札に書かれている。
のだと思われるが、すばるには外国語が読めない。英語ではないことだけは分かる。
「かず君に何回も聞いたんですけど」
「うん」
「いいからって、そればっかり」
「へぇ」
「普通のでいいのにって言っても、気にするなって最後には怒っちゃうから」
「ほぅ……」
毎度のやり取りを思い出して、しょぼくれて、少し小さくなったようなすばるの濡れた髪を、清水はひとふさ摘んで指先でねじねじする。
「ドライヤー使わなかったの?」
「あの……勝手にあちこち触るのもどうかと」
「ごめん! 棚にしまってあったんだよね! 取ってくる! アイス食べてて!」
止める間も無く居なくなり、仕方がなくなったので、すばるは素直にアイスクリームを食べることにした。
バニラの白にチョコクリームの茶色がマーブル模様を作り、ほろ苦いチョコクッキーの黒い粒々が堪らない。
もったいないので少しずつ口に入れていると、清水はドライヤー以外も手にして戻ってきた。
「……ちょっと!」
「はい! ごめんなさい!」
「謝れば済むとか思ってますか?」
「だってどっちにしても使うと思って」
「ここに持って来なくても部屋で……」
「えええぇ?『つもり』が違った!」
「なんですか、それ」
おしゃべりしながらてきぱきと用意は済んで、すでに清水はドライヤーと、部屋に置いてあったすばるのブラシを両手に装備している、
「いや……自分でしますから!」
「いつもは俺がブラシしてもらってるからね、今日はすばるさんの番」
「ブラシをしてるのはウルフィーです!」
「うん、だから俺だよ?」
「そうだけど、そうじゃない!!」
「まぁまぁ……すばるさんはそのままアイス食べてて? ね? ……はい、風失礼しまーす」
自分のとは違う大きな手や指が、軽く頭を掴んだり髪の毛を梳いていく感覚に、すばるは胸がぎゅうとなる。
ここ数日、誰かに全面的に身を任せたり、世話を焼かれたりすることが増え過ぎて、容量がパンクしそうになる。
誰かというか、それ全部が清水だと気付いてなおしんどい。
「……お風、熱くないですかぁ?」
「美容師さんの真似ですか?」
「んふふ……うん。耳、真っ赤だけどどうしたの?」
「……お風が熱いんです」
「ふぅん。そうなんだ? ごめんね?」
半乾きになったところでヘアオイルを投入され、またふわりと香りが立つ。
「……うーん。これも高そうだね、いい匂い」
「……ですよねぇ……」
「まぁ、その高そうなあれこれで、とぅるっとぅるになったすばるさんの髪を触ってるのは、俺! 俺なんだけどね!」
「…………気持ち悪さが止まりませんね」
「あれぇ? そんなつもりないのになぁ……おかしいなぁ」
きちんと髪を乾かすと、すばるはむっすりとした顔で片手を上げた。
「美容師さん、髪くくって下さい」
「ええ! もったいない、こんなにさらっさらになったのに!!」
「髪が邪魔なんですもん、美容師さんなんでしょ?」
上げた片手の手首にはヘアゴムが付いていた。
「はーい、かしこまりー」
不服そうな声で背後からゴムを外そうと手を伸ばし、清水はついでとばかりに手首を撫でて、そこに口付けた。
「あ、やば。つい…………怒った? すばるさ……」
ばちりと目が合ったすばるが、顔を真っ赤にしてこちらを見ている。
「あ、もうこれ……ダメだ……」
清水はそのまま床にへなへなとゆっくり倒れてゆく。
「え?! ちょっ……大丈夫ですか?!」
「うぅ……胸が苦しい……」
「ど! どうしよう……えっと……救急車……は、ダメか! えっと?! あ! 莉乃さんに連絡……」
「……ちょっとちょっと、すばるさん」
「はい!」
「すばるさんも寝転んで……ここに」
「は? そんな場合じゃ!」
「休めば楽になるから……ほら、ここ」
「寝転んでたら大丈夫なんですか?」
「うん、すばるさんもほら……こっち向きで」
言われた通り、横に並んで寝転ぶと、清水はふうと息を吐いて、手を伸ばす。
すばるの髪を撫でてそのまま耳にかけた。
「……もう大丈夫?」
「……落ち着いた」
「良かった……」
「…………なんで莉乃?」
「はい?」
「なんで莉乃だけ名前で呼ぶの?」
「え……だって、萩野さん三人いるし」
「俺は?」
「萩野さん」
「あ、さてはわざとだな?!」
むにゅと頬を摘むと、すばるは痛いと笑っている。
「名前で呼んで?」
「…………清水さん」
「んふふ……もう一回」
「…………なんか嫌です」
「キスしても良い?」
「辞退します!」
「えーここする流れじゃない?」
「…………莉乃さんたち遅いですね?」
すと起き上がったすばると同じように清水も起き上がって座り直した。
「ちょっと……寝てなくて大丈夫なんですか?」
「すばるさんが可愛くてしんどかっただけだから」
「…………くそっ」
「心配してくれてありがとう」
ふんとソファに座り、すばるは残りのアイスを食べだした。半分ほど残っていたアイスクリームはもうほとんど溶けて液体に近い。
食べながら見上げたデジタル時計はもうすぐ十時になろうとしていた。
「……ほんとに遅いですね」
「見つけるまで帰ってくるなって言ってあるから」
「え?! なんですか、それ」
「まだ見つかってないってことだね」
「じゃなくて……ずっと気になってたんですけど、お父さんとお母さんにする態度じゃないですよね?」
「うん?…………ああ、俺リーダーだから」
「リーダー?」
「うん、この群れのリーダー。だから立場的に俺のが上っていうか」
「ああ……犬的な意味で?」
「狼だけどね」
「これは、失礼しました」
「いえいえ……ちょっと前までは莉乃がリーダーだったけど『僕、年寄りだから』とかなんとか。まぁ、面倒だから押し付けたんだろうけど」
「なる……ほど?」
「だから俺のオーダーには従うって感じ」
「はぁ……難しいですね」
「そうかな? 分かりやすいと思うけど」
「なんか変だなって思ってました」
「そうなんだ?」
「態度が大きいっていうか、言い方強いって言うか」
「ああ……まぁ、そうかもね」
「思春期かなって」
「ちょっとそれ誰の話?」
「そうか……群れ……」
にこりと笑うと清水はウルフィーのようにするりと頬を寄せる。
「……やめて下さい!」
「どうして? いつもしてるのに」
「ウルフィーとです!」
「俺だけど」
「ウルフィーとです!」
「鼻ちゅーもダメ?」
「ウルフィーとです!」
「……………………ちっ」
ふらりと立ち上がった清水は、それまでと全く違う態度で、無表情にすばるを見下ろす。
風呂とひと言溢すようにして、ふいとリビングを去っていった。
あまりの急変にすばるはどうしていいか分からず、しばらく何も考えられなかったが、慌てて辺りを片付けて、さっさと自分の部屋に戻った。
怒るよりも、感情が抜け落ちたような顔が怖かった。
怒るのは大体に於いて兄の方だが、こちらが下手に出て、へらへら笑っていたら、すぐに気分を持ち直してくれる。
大きな声で強く言われるのを、しばらく口答えせずにいれば、いつか落ち着くからそれを待てばやり過ごせた。
自分の態度はどうだっただろう。
頑なで、すぐに怒って、即拒否して。
こんなに気を遣って良くしてくれるのに。
家に招き入れて、嫌なものから遠ざけようとしてくれているのに。
折り畳んだままの布団の上で、丸まってうずうず考えていると、かしゃりと音がして、ドアが開いた。
「え!……ウルフィー」
ふらふらと尻尾を振りながら、ゆっくりと近付いてくる。
ふんふん匂いを嗅がれて、頬をすり寄せて、鼻先を合わせた。いつもの挨拶をする。
「ウ……ルフィー?」
起き上がったすばるの膝に頭を乗せて、撫でろと催促される。
撫でているとぐいぐい頭を腹に押し付けられて、そのうち布団の上からふたりして転げ落ちていった。
「あは!……ははは! 大丈夫? 痛いところない? 」
機嫌よさそうに振れている尻尾と、ぴんとこちらを向いている耳を見て、すばるはぎゅうと首に抱き付いていった。
ウルフィーはふかふかみっしりとして、良い匂いがしている。
「ふふ……あったかい」
べろんと頬を舐められて、すばるはまた声を上げて笑う。
「かわいい! 好き!!」
ぎゅうと抱きつく。
静かな部屋で、ぱさぱさと尻尾が床を叩く音だけが続いていた。
「……ウルフィーには素直に好きって言うのに」
その夜はそのままウルフィーと一緒に寝た。
朝になってよくよく考えて、すばるはあまりの行き届かなさに、自分を呪いたくなる。
たっぷりいちゃいちゃして終了。
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