すばるとしみずのあいだには、しゅっとしてもふもふのおれがいる。
すばると小人
主要な道路からは少し離れた住宅街の中ほど、全部屋で八室のアパートの二階端。
築十八年、セキュリティは玄関の鍵のみ。
六畳のフローリングの部屋と、申し訳程度に付いたリビング、というより少し通路が広めなキッチン。こだわりは風呂とトイレが別れていること。
一応ベランダは南向きだが、数メートル先には隣家の壁がある。
洗濯物は部屋干し派だから、特にベランダに用事がないので、向かい側はそれほど気にならない。採光も問題は無い。
むしろ夏場は腹立たしいほど陽が入る。
部屋は東の端なので、西日にうんざりせずに済んだのはラッキーだった。
高校入学を機に、保護者の元を離れてひとりで暮らすことに決めた、決して広くはないこのアパートの一室が、すばるの城だ。
持ち物は多くは無い。
ほとんどが部屋に備え付けのクローゼットの中に収まっている。
壁際にはベッド、真ん中にコタツになる小ぶりの卓、反対の壁際にシンプルなローチェストと姿見の鏡が立てかけてある。
ベッド以外の家具は、一足先にひとり暮らしをしていた兄から不用品を譲り受けた。
なので、可愛らしいものは無く、ひとり暮らしの男性宅のような有様だ。
すばる自身も可愛らしいものに興味がないので、自分で選んだカーテンも布団カバーも、大人しめの単色で柄も至ってシンプル。
男性宅風味が増す一方。
そんな彩りの少ない部屋に、夜が始まった時間、そこそこ疲れた状態でバイトから帰ってきた。
さっさと寝てしまいたい気分に飲まれながら、すばるは妙な落ち着かなさを感じる。
どこがどう妙なのかはよく分からない。
ただ、自分の部屋のはずなのに、他人の部屋に居るような、妙な気分だ。
持っていた荷物をそっと全部床に置く。
座布団にしているクッションを卓の前に直して、いつものように座ってみる。
そわそわと心を撫でる何かを探ろうと、そこから見えるものを観察した。
どこかが違う感じがするのに、どう違うのか分からない。
まるで他の誰かが居るような、そんな気配。
もちろん、隠れて潜めるような場所は無いので、誰かが居るわけではない。
目には見えない何かが居るのなら話は別だけど、そういった類の、すばるの知らない世界は、今まで探知できたことがない。
だから正確に言えば、誰かが『居た』が正しいのかも知れないが、それよりはもう少し生々しい感じかする。
「……かずくん?……じゃないか」
卓の上を手でひと撫でする。
兄は時々すばるの留守中にやってくることがある。離れた場所に住む保護者の代わりに、時々様子を見にやってくる。
でもそんな時は、事前に電話かメールがあるし、いつも何かしら部屋でくつろいだ形跡が残っている。
コーヒーを飲み終えたカップや、すばるがもらってきたパンの袋のみが、こいつらはいただいた、と言いたげにそのまま残してある。
そして卓のど真ん中に、どうだとこれ見よがしにシャンプーなんかの日用品を置いて帰ったりしてくれる。
童話で似たような物語があったのが連鎖的に頭の中に浮かんでくる。
食べ物を置いておくと、小人がお礼に靴を作ってくれる、という話があったのを思い出す。
そういえば、笠をあげたら食べ物を運んできたお地蔵様もいた。
小人かお地蔵様かはさて置き、兄が来ていたのなら、日用品の他に、必ず何かしら忘れ物をして帰る。
上着や何かの充電器や、細々としたもの。
すばるは忘れ物があると、毎度 知らせるはめになる。
そんなものは一切なく、朝、学校に出かけたままの状態。
ベッドの上には脱いで放り投げたままの部屋着が、ねじれて横たわっている。
卓の上に乗ったままの紙の束、端っこを指でめくった。
パラパラマンガのように、紙のすみっこを何度も弄ぶ。
定期テストの予想問題集、その原本。
コピーは先日すでに引き渡し済みだ。また発注があれば、いつでも量産できるように残してある。
きれいでピカピカとは言えないが、それなりに散らかってない部屋を見回した。
何がとは言えない妙な違和感に、心中ですばるは唸り声を上げた。
と同時に急にお腹が空いてきたので、もやもやした分からないもののことを考えるのは止めて、冷蔵庫の中にある食材のことを考え始める。
「おっと。おかえりなさい、すばるさん!」
「……はぁ、どうも……帰りました」
偶然出くわしたような空気を撒き散らしつつ、道の角からふらりと現れた清水は、にこにこと愛想良く笑っている。
この角から現れるのは三度目なので、偶然も何もない、この曲がった先で待ち伏せしているのはすばるにも察しが付いていた。
曲がった場所を見ても何も無い。
ただの民家の塀と、等間隔に並ぶ電柱のある、なんということのない、ただの道路。
「……どうやって私が来るってわかるんですか?」
「超能力」
「は?」
清水はぷはと吹き出しながら、目線だけで斜め上を見た。
小さな黄色い屋根が付いた、丸っこい鏡。
道の向かい側には、カーブミラーが立っていた。
「うわぁ……恐い」
「賢いって言って欲しいなぁ」
「その賢さが恐い……」
「ま、そんなことより」
「そんなことよりって」
「何が食べたいか考えてくれた?」
「…………キャビアとフォアグラ」
「あ、フレンチ? 良いね!」
「冗談ですよ」
「なんだ冗談かぁ……良い店知ってるのに」
「高額でも躊躇ナシですか」
「すばるさんにとっては、キャビアとフォアグラが『高額』のイメージなんだね! かわいいな!!」
「いや、誰にとっても高額の部類ですよ」
「ホントは何が食べたいの?」
「何かをごちそうになる気はありません」
「えー? 約束したのに……」
「してません」
「あれ?! んんーー……」
本気で不可解そうな顔で唸りながら、清水は自然にすばると並んで歩き出す。
「どんな誘いだったら乗ってくれるの?」
「何も乗りませんよ」
「そんなぁ……」
「大体、どうして私を構おうとするんですか」
「ん? もしかして気付いてない?」
「何にですか」
「すばるさんが好きなんだよ」
「何をですか」
「え? ……あ、すばるさんが何かを、って話じゃなくて」
「はぁ」
「俺がすばるさん『を』好きって話」
「…………何でですか」
「…………うんもうこの塩対応すら堪らない」
「…………気持ち悪っ!」
ああでもないこうでもないと応酬を続けながら並んで歩き、住宅街に差しかかる手前で、清水は足を止める。
「……じゃあ、間を取って、ここはひとつお茶でもどうですか」
「……間とは」
「飲みたいなぁ……俺、ノドが乾いたなぁ」
個人で経営しているような小さなカフェの前で、清水はすばるの前に回って道を塞いだ。
横に避けようとすると同じ方向に動き、反対に行こうとするとまた邪魔される。
「なんなんですか」
「だからここに入ろうってこと」
手を伸ばして取手を掴むと、清水はそのままカフェの出入り口の扉を開けた。
中からいらっしゃいませと軽やかな声が聞こえる。
「さぁ、どうぞ」
恭しく手で指し示されて、すばるは激しく苛立つ。でも次の瞬間には苛立ったことが不思議に思えてくる。
そこまで腹を立てることだろうか?
見窄らしい高校生の腹を満たそうとしているだけなのに?
ああ、借りを作るようで嫌なのか。
恵んでもらうようで腹が立つのか。
バイト先のパンをしこたま恵んでもらっておいて、この人からは嫌だなんて、それはなんとも身勝手な話なんじゃないのか。
「なに考えてるの?」
「……チョコケーキのことなど」
「はは! あるかな? あったら良いね!」
さあどうぞとやわらかく背中を押されて、すばるは軽くため息を吐きながら店の中へ足を進めた。
チョコレートケーキはメニューに載っていたが、ケーキだけではなく、美味しそうなものは上から順に注文してやった。
動くのも嫌になるくらい、夕飯は作らなくてもいいくらい、思い切り食べてやれと考えた。
清水はすばるの皿から味見程度にひと口ずつ食べている。
それ以外の時間のほとんどを一方的にしゃべったり、にこにこ笑いながらすばるの食べっぷりを眺めていた。
「すばるさん」
「なんですか」
「何か困ったことはない?」
「…………ざっくりした質問ですね」
「何か変わったことがあるでしょ?」
「……変な男の人に付き纏わられて困る、とかですか?」
「……誰に?」
「……帰り道に出没して、何かを食べさせようとしてくる変な男の人がいます」
「あ! 俺以外の話だよ」
「…………別に無いです」
「ほんと?」
「あったとしても言わないですよ」
「ええ?」
「どうしていきなりそんな事聞くんですか」
「……気になったから」
「なんでですか」
「教えてくれたら教えてあげる」
「…………何もないです」
「…………そう? なら良いけど……食後は何にする? コーヒー? 紅茶?」
「あったかい紅茶で」
「……俺アイスティにしよーっと。すいませーん」
食事代を出そうとすると、頑なに清水に拒否された。
誘ったのは自分だから、一円だろうと出させる気はない、と半ば怒られたので、すばるは丁寧にお礼を言って終わらせることに決める。
清水とは店の前で別れた。
じゃあここでと言うと、にっこり笑ってまた明日とすばるを見送る。
言い出したら引かないところもあるが、何かと理由を付けて引き留めたりはしない。
無理に付いて来ることもない。
どこに住んでいるのかも聞かれない。
少し離れた河川敷で再会したのだから、この近所に住んでいることは分かっているだろう。
まぁ、調べようと思えばすぐに知る方法もあるだろうし、そんな手間暇かけなくても後をつけれは一発で家なんてバレる……
しばらく歩いてすばるは後ろを振り返った。
機嫌良く店の前で手を振っていた清水はもういない。
「…………また明日って言った?」
翌日はすばるの完全なる休業日、学校もバイトも無い、土曜日だ。
河川敷の土堤に清水が現れるのを容易に想像してしまい、無意識ですばるは眉間にぎゅうと力が入るのを感じた。