転生公女はバルコニー菜園に勤しむ
「あれ、クラウス長官がこんな時間にお越しになるなんて、珍しいですね」

 時刻は夜の七時。温泉宿のスタッフ控え室に入ってきたのは、榛色の長髪の男だった。シャーリィはツアーの日報を書いていた手を止め、立ち上がった。
 ドアを後ろ手で閉め、クラウスはぶ厚いファイルをテーブルに置く。

「テオに用事があったついでに寄ったまでだ」
「そうだったんですか。お茶を淹れましょうか?」
「茶ならすでに飲んできた。それより、日報はもう書けたのか?」

 テーブルの上にある書類をちらりと見て、クラウスが冷ややかな視線を向ける。

「も、もうすぐ終わります」
「なら、ここで待たせてもらう。ちょうど集計したいデータもあるしな」

 クラウスは手近の空いた椅子に座り、ファイルから数枚書類を抜き取った。そして横に置いた書類をめくりながら、白紙に黙々と数字を書き連ねていく。

(すごい……早いのに字が綺麗なんて反則だわ)

 しかも、数字だけでなく、簡易グラフまで書いている。定規を使わずにフリーハンドでまっすぐな線が引かれ、シャーリィは思わず感嘆の吐息をもらした。

「……君はいつまで、そこで突っ立っているつもりだ?」

 永久凍土を連想するような冷たい声に、びくりと肩が上下した。

「す、すみません! すぐに自分の仕事にとりかかります!」
「早くしたまえ」
「はいぃ!」

 素早い動きで着席すると、椅子はすでに温もりを失っていた。日報の空いた欄を無心で埋め終わると、先ほどまでカリカリと続いていた速筆の音が不意にやんだ。
 顔を上げると、集計が終わったらしいクラウスが書類を片付けているところだった。そして、無言で手を差し出される。

「終わったのなら、私が持って帰る」
「……お願いいたします」

 日報を両手で渡すと、クラウスの口元が少しだけ緩んだ。

「君は早く帰って、しっかり休むように。若いからと自分を過信すると、そのうち限界が来る。休めるときは休みなさい」
「……はい」

 言外に休日出勤のことを咎められている気がして、シャーリィは身がすくむ思いをした。
 一方のクラウスは席を立つと、言うことは言ったとばかりに、さっさとドアの向こうに去っていった。

(休日出勤もほどほどにしないとね……)

 緊張の糸が切れたように、シャーリィは力なく椅子に座り込んだ。
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