転生公女はバルコニー菜園に勤しむ
 するりと左脇に抱えていたバインダーが地面に落下した。
 だがシャーリィがのろのろと手を伸ばすより先に、アークロイドがそれを手に取る。ぱんぱんと砂を払い、無言で差し出される。

「す、すみません。ありがとうございます」

 バインダーを両手で受け取り、シャーリィは頭を下げた。対するアークロイドは怪訝な表情でこちらを見ている。

「足元もふらふらだし、その目つきの悪さ。さては、寝不足だな?」
「あう……」
「仕事熱心なのは結構なことだが、倒れるまで我慢するつもりか? 自分の健康に気を配ることは、プロなら当然だと思っていたが?」
「……返す言葉もございません」

 体調管理も仕事のうちだ。まっとうな正論にシャーリィはうつむいた。

「それにしても、ひどい顔だ。仮眠ぐらいしてこい」
「で、でも、これからツアーの仕事がありまして……」
「ツアーなら、代わりの者に頼めばいい」
「いえ、万年人手不足なので、代わりの者はいません……」

 眉を下げて言い募ると、アークロイドは口を閉じた。顎に手を当て、何かを考えるような素振りを見せる。

「今日のツアーは予約がいるやつか?」
「当日参加型なので、予約は不要です。これから受付を始めます」

 受付は温泉宿で行っている。番頭のテオがツアーの申し込み客をさばく手筈になっている。シャーリィは受付名簿を引き継ぎ、そのままツアーへ出発するという流れだ。
 難しい顔で両腕を組んでいたアークロイドは腕をほどき、何かを決意したようにシャーリィを見据えた。

「……なら、俺が参加する。貸し切りにしろ」
「え?」
「なんだ。聞こえなかったのか」

 呆れたように腰に手を当てたアークロイドを見つめ、シャーリィは目を瞠る。

(アークロイド様がツアーに……?)

 悠悠自適に過ごしていた彼が、どういう風の吹き回しだろう。にわかに信じたがたい申し出におずおずと確認を取る。

「本当に……参加されるのですか?」
「そうだ。俺とルースの二人だ。貸し切りはできないか?」
「もちろんできますが、その、貸し切りだと特別料金がかかりますが……」
「俺を誰だと思っている」
「失礼いたしました。ツアーへの申し込み、誠にありがとうございます」

 彼は海の大国から来た上客だ。資金力の差を見せつけられて凹みそうになるが、持ち前の営業スマイルで気持ちに蓋をした。
 そんなシャーリィの心中に気づいた様子はなく、アークロイドはふと声をひそめた。

「ところで、今日は何のツアーだ」
「……水辺の散策でございます。馬車で一時間かけて北上し、湖の遊歩道を散歩するコースになります。ランチは森のロッジで、湖を見ながら食べることができます」
「ほう、それは期待できそうだ」
「湖が近くなので、涼しくて過ごしやすいと思いますよ。……では、わたくしはツアーの手配をしてきます。九時に温泉宿の入り口でお待ちしております」
「ああ、わかった」

 まずはテオに事情を説明し、馬車の台数も変更しなければならない。
 予定変更を告げるべく、シャーリィは関係各所へ急ぎ足で向かった。
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