すみ
リビングのドアを開けると石川は「うううううッ」と無意識に唸っていた。
この部屋に通ってくる『ジェンダーフリー論者桐島真帆大先生』と別れて一週間ほどしか経っていないというのに、そこに見える光景はガラリと変わり、一人暮らしの男の雑然とした部屋そのものに朽ち果てている。
珍しく軽く酔った鈍い頭で見渡してみるだけでも、牛乳を飲んだままの白く曇ったコップ。
数日分のネクタイ。
ある意味芸術的にも見える脱いだままの形のワイシャツ。
蛇がどくろを巻いているような靴下の丸い塊。
フローリングの床の隅にはこれでクッションでも作れと言うのか、と思えるほどの埃がふわりと寄り集まっている。
「あああ~、どうしたものやら」
散らかったひとりきりの部屋で、誰が相槌を打ってくれるでもない情けない独り言が出てきて、石川はますますどうしようもない気分に落とされる。
こんな気分になるのが嫌だから榎本に夕飯を付き合ってもらい、それでも部屋が片付くわけでない事ぐらい、賢い頭は分かっているくせに、つい、後回しにしてしまう。これでは榎本に傷心中だと思われても仕方が無いだろうか。
実家暮らしで、外で飲み食いする必要は無いのに、石川に付き合ってくれる榎本には感謝しているのだが、そんなこと、口に出したり、出されたりするのはお互いに恥ずかしいもので、普段どおり「じゃ」と短く言って別れるのは、このところ常の事だ。
同僚の桐島真帆に振られた事、好意を寄せているらしい加藤あずさの事、思い出せば、今夜は自分の方が随分と多く喋っていたと石川は思う。
普段は榎本の方が断然口数も会話も多く、その話術に笑って旨い酒を飲んでいたものだが……。
だから、多分、今夜は上手く榎本に乗せられて、愚痴を言い、ストレス発散できたのかもしれない。
タバコや焼き鳥の煙の臭いが付いた体や髪を早くシャワーで流したいものだが、気分良く出てきてまたこの光景を見るのも、もう今夜が限界だ。
伊達の眼鏡を外すと所定のテレビの横に置き、ネクタイをシュルシュルと外し、ワイシャツの袖をむんずっと捲くった。
「う~ん、片付けますか! 自分でやらねば誰がやる!」
食器洗い乾燥機の蓋を開けながら、またも年寄り臭い独り言が出た。
「俺もオジサン決定かぁ?」
これも皆、今夜は酒のせいという事にしておこう。
石川は自分に言い訳して、鈍く蛍光灯の明かりを反射する食洗機の中に残っている、容量の割に僅かばかりしか入っていない食器を出し、順に棚の空いたスペースに戻す。
次いで、流しや、その周辺にあった食器を大きさに合わせて順序良く中の籠に並べると、もういちど室内を見渡し、いつ何に使ったものか既に記憶に無い、テーブルに置かれたままの小皿とスプーンを取りに行き、それも籠に並べる。
「洗剤は……、っと」
流し下のドアを開けると小さな水色の箱。
付属のさじで軽く一杯の粉末洗剤を所定の場所に置くと、パタンとドアを閉じてスイッチオン。
グレーの機械は食器の重量を計測して、節約コースを推奨するとランプを点し、石川はスタートのボタンをプッと押す。
「よし、と」
自動で注水を始める機械が、ひとりきりの室内に意外なほど大きく響く音を立てると、石川は、どうしてたったこれだけの事を今まで放っておいたのか理由が分かった。
「嫌でも思い出すから……、か」
少しでも片付けが進み、晴れ晴れしい気分になりそうなものなのに、石川の口からは小さく息が漏れる。
男の一人暮らしの部屋に食器洗い乾燥機は不似合いだ。自炊を少しもしないわけではないが、一回に使う食器の点数は限られている。それなのに、なぜ、石川の部屋のシステムキッチンの上には仰仰しいまでの大きさの食洗機が陣取っているのか。
その理由は、石川が積極的にこのマシンを使わなかった理由と同じ人物が関係している。
掃除機を動かすのは面倒で、石川は使い捨ての式のペーパーモップを手にすると、フローリングの目に沿って簡単な拭き掃除を始めた。