『ただ、君だけを愛したくて』
「ソノカーッ!一緒にお昼食べよーっ?」
この子は石田由里という子で、わたしと同じ吹奏楽部の友達。わたしはドラムとパーカッションで、この子はフルートを担当している。
学生たちは普通、学校から楽器や機材を借りるものなのだけど、この子は違う。この子は幼稚園の頃から英才教育でフルートを習っていて、〈ムラマツのフルート〉を自前で持ってきているリッチな家庭育ちだ。前に、話の流れで、
「いくらくらいするの」
と、聞いたことがあったが、
「90万円くらいだったと思う」
と、淡々と答えたのだった。わたしは思わず笑ってしまい、飲んでいた120円のカフェオレをこぼしそうになった。
そんなわたしの姿を見た由里も、一緒に笑った。多分だけど、その時を境にしてわたしと由里は打ち解けたのかも知れない。
「いいよ、どこで食べる?」
と、わたしが聞くと
「いつものとこ!」
と、元気に応えるのだった。由里は、とても活発で元気な貴少女だ。だからだろうか、そんな由里の境遇を羨むような女子は以外と少ない。しかし、由里がこの公立高校にいるのが前々から不思議だった。偏差値は普通のところだけど、由里にはもっと相応しい場所、という所がある気がする。すごく、もったいないよね?
あなたもそう思わない?
屋上にはかすかに緑がかった風が吹き、2人の髪をなびかせる。
由里の長い髪は赤茶に揺れ、わたしのミディアムショートの髪は黒く揺れた。
「いい天気っ」
「だねっ」
由里には太陽と風がとてもよく似合う。まるで、由里の香りに誘われる太陽と風が、由里のことを友達だと思っているようだった。
その光景を眺めることも、わたしにとっての安らぎの時間なのかも知れない。
「由里、ありがと!」
「…へっ?!なにが?(笑)」
「ううん、なんでもない」
「変なのーっ」
「あ、ほら、あそこに由里の狙ってる柚月がいるじゃん」
柚月は屋上のフェンスを背にし、友達に囲まれてサンドイッチを人差し指と親指でつまんで食べていた。他の男子は菓子パンや惣菜パンやおにぎりを食べている。サンドイッチというところがいかにも柚月らしい。
「なによ!"狙ってる"って!(笑)まるで私がライオンかチーターみたいじゃないっ」
「だって、そうでしょ?」
「うーん、まあ。好きなのは確かだけどねー」
「手紙の返事はもう来たの?」
「ううん、まだ」
なんて古風な時代だろう、と読者の皆さんは思うかもしれないが、1991年という時代はそういう時代だったのだ。LINEやTwitterなんてないんだもの。余程のインテリでもない限り、電子メールで告白するという時代ではなかった。
しかし、そんな古風な時代が失われるのは直ぐ先のことでもある。新しいものが古くなることはあるけれど、古いものが新しくなることは決してない。古いものは常に、〈失われる運命〉を背負い続けなければいけないからね。
なんて、悲しいことだろう。
「きっと由里なら付き合えると思う。可愛いし、性格も明るいし、しかもお金持ちだし」
「"お金持ち"は余計だよー!もーっ!そんなの関係ないもん。お金なんて私嫌いだもん」
「へえー、初耳。じゃあ柚月に少し分けてあげればいいじゃん。喜ぶと思うよ?」
「え、柚月くんの家って貧乏なの?」
「ばかっ、聞こえるよ。もう少し小さい声で喋れないのあんたは」
実際、柚月は母子家庭だった。お父さんは柚月が3歳の時に、ガンで亡くなってしまったらしい。柚月は、
「父さんの顔なんてしらねー」
と、前にわたしに言ったことがある。わたしは何て言ったらいいのかわからず、
「そっか…」
としか応えることができなかった。あの時の柚月の顔を思い出すと、キュッと胸が苦しくなってしまう。
一番苦しいのは、柚月本人なのに。
ーーー柚月、今の柚月はとっても輝いてるよ?わたしにはそう見える。柚月、わたしには今のあなたを救う力がないんだ。ごめんね。もう少し、もう少しだけ待っててねーーー
太陽と風が止んだ。
屋上にいる人々の話し声だけが午後の屋上を染める。
「ほーんとっ、いい天気だねーっ!」
私の小さくない声は、柚月のフェンスまで届いていただろうか。
ーーー柚月、わたしがついてるからねーーー