篝火

 

 さあねと呟いて、その日トイレの隣の壁にいた。


 定時制高校の夜は長い。

 冬場はもう朝礼の時間で真っ暗だし、太陽は眠りにつき、その頃に私たちが動き出すなんて、まるで真夏を蠢く害虫のようだ。背を預けて目にした廊下は節電のため必要な教室の前しか点灯せず、薄暗い。廊下の向こうには非常口の緑のランプだけが光っていて、剥き出しの蛍光灯がちか、ちか、と光っていた。


立河(たちかわ)さん」


 体育の授業が終わって、ぞろぞろと帰ってきた男子軍の中に、首根っこを掴まれて何故か鼻血を出した甚介と佐橋一行がいた。おおかた殴られたのだろう。眼鏡にヒビこそいっていなかったけれど不自然に歪んでいて、それを目で追って教室に入っていくまでを見届けたら、随分爽やかに呼ばれた。

 佐橋雄馬だ。


 私たちの高校に制服はなく、そのために私服で登校する。

 体育の授業に限っては動きやすいジャージを持参しろと言っていたけれど律儀に守っていたのは最初だけで、それをいの一番に破ったのはやはり佐橋だった。

 目がチカチカするような赤のパーカーに、白のロゴ。何かのスポーツメーカーのブランドのようだ。下はジャージを着ていた。ゼッケンをつけている。そして酷く整った顔で、無邪気な屈託のない笑みで、私の目線の先を引っ張った。そう、この男は甚介以外に人当たり抜群なのだ。


「体育だった。バスケだったんだよ、さっき」

「…鼻血」
「ボール、顔面でキャッチしてた。軽くパスしただけだったんだけど」


 大丈夫、って心から笑われて、この笑顔に狂気を買っているのかと思うと怖気る。


「…立河さんさ、大変だね。幼馴染みって理由で茂木の世話任されてさ、疲れるでしょ」

 ね、って微笑む様が異常で、それでも気圧される訳にはいかず言葉を探す。
 佐橋雄馬の守備範囲に入ったことがなかったのだけれど、彼は酷くいい香りがした。香水だとか、そういう類ではなく、彼の纏う空気が澄んでいるのだ。それはいつも陰気で影を背負い、歯をロクに磨かないから口臭の酷い甚介と対極線上にあり、正義と真っ当を揺るがせる。

 正解は此方だと、見えない何かが笑顔の奥で手招きしているような魅力。






「俺が救ってあげようか?」

「え?」
「立河さんを、救えるよ。本当は逃げ出したいんだろう、茂木甚介から」

「…」










「手を貸してあげるよ」



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