やさしいベッドで半分死にたい【完】
「お前は黙って誘拐されときゃいいんだよ」
「花岡さん」
「わかったか」
有無を言わせない花岡の声に、ゆっくりと頷いてしまった。考える間もない。
ただ逃げ出したかった。私以外の何かになりたかった。死ぬ勇気などないから、半分死んで、自分以外の誰かになれたらいいのに、と切に願っていた。
いつも連絡をしてくれる“貴女”のような人になりたいと思っていた。
花岡南朋。
まさかその相手が、最も迷惑をかけた男性だったとは知らない。開かれた扉に鍵をかけた男が、当然のようにその鍵を自分のパンツのポケットに入れた。
私よりも花岡に似合う家のような気さえしてしまう。
もう逃げるつもりなんてないのに、花岡の大きな手に呑み込まれたままの指先を、振りほどく気にはなれなかった。
花岡は、まるで自分の家から出るように鮮やかに歩いて、エレベーターの箱に吸い込まれてしまう。
何度かこの家まで車を回してくれたこともあったから、きっと道順を覚えていたのだろう。
そのたびに、淡々と注意を受けたことを覚えている。
『練習に打ち込むのはいいですが、時間を忘れるほどに熱中して倒れませんように』
言葉の通り倒れた時ばかりお世話になっていた。だから、大家もあんなにすんなりと鍵を開けてくれたのだろう。
懐かしい記憶だ。
もう、そんな風に世話を焼いてくれるような人はいなくなってしまった。
当然だろう。私はもう、マネジメントされるような人間じゃない。ただの一介の作曲家だ。