やさしいベッドで半分死にたい【完】
いつ、現実に戻されてしまうのだろう。生活が追いかけてくる。恐ろしい響きに泣きわめきたくなった。
私は、私以外にはなれない。おそろしい呪縛だった。
怯える私の頬に触れた。やさしい指先は、慰めるように私を励ましている。柔らかな温度に、俯いていた顔が持ち上がった。
目の前の人は、やっぱり安心させるようにやわく微笑んでいた。離れられなくなってしまいそうだ。この人を巻き添えにして、どこまでも泥濘《ぬかるみ》に沈んでしまうような。
「お前が俺以外の全部を、忘れるまで」
おそろしい予感がしているのに、花岡は気にすることなく、たっぷりと私を甘やかす声で囁いた。
胸が苦しくなる。
こんなにも素敵な人だと知っていたら、私はきっと、この人を独占したいがために、わがままになってしまっていた。知らなくてよかった。だから、この人はあえて冷たく振る舞っていたのかもしれない。
「明日の予定も決まったな。ほら、そろそろ寝ろ」
考える隙を与えずに、私の頭を頷かせた。
満足そうな人が髪を撫でる。温かい指先にすでに慣れ始めている自分がおそろしい。
戻らなくていいのなら、もう一生帰りたくない。
私の世界は苦しいだけの場所だった。どんなにもがいても、もがけばもがくほどに息が詰まって、ずぶずぶと暗闇に呑み込まれた。
何がただしいのかは、ずっと前からわからなくなっていた。正解のない暗闇で、一人闇雲に歩き続けるくるしさから、逃れたくてたまらなかった。
立ち上がった人が、手を差し伸べてくれる。雨上がりの雲から降りてくる一筋の光のようだった。柔らかな瞳に、勝手に指先が伸びる。
絡んだら、重さなんて感じてもいなさそうな人が、私の体を起こしてくれた。ぴんと立ち上がって、後ろに付き従う。
暗闇の中を照らす、やさしい光のような人だ。花岡の背中は、どうしてこんなにも広くてやさしいのだろう。