頑固な私が退職する理由
ふと気づくと、オフィス内には誰もいなくなっていた。
時計を見ると時刻は午後7時過ぎ。
以前はこの時間ならまだまだ人がいたけれど、リモートワークのための整備がされノー残業が推奨されるようになってからは、残る人はほとんどいなくなった。
私も普段なら残業したりはしないのだけれど、担当している会社が急きょホームページの更新を依頼してきた関係で、今日はやむなく残って作業をしている。
仕事は好きだ。会社も楽しい。
辞めることになるとはわかっていたけれど、私を一人前の社会人として育ててくれたSK企画を去るのは寂しい。
それに……このまま青木さんに会えなくなるかもしれない。それでも。
「自分から告白するのは絶対嫌なんだもん……」
声帯を使わない口の動きだけの呟きは、静かなオフィスには響かず、パソコンのファンの音に紛れ溶けた。
その数秒後。
「お、よかった。まだいた」
誰かの足音が聞こえてきたなと思ったら、青木さんだった。
つい数秒前まで彼のことを考えていたから、ドキッとして肩が震える。
「え、青木さん直帰したんじゃなかったの?」
さっき社内システムを見た時、そう表示されているのを確認した。別にたまたま目に入っただけで、決して気になったからチェックしたわけではない。断じて。
「あー、そのつもりだったんだけど、沼田が珍しく残業してるみたいだったからさ」
なにそれ。青木さんもシステムで私の在席状況を見たの?
そして私がまだ会社にいるから、私に会うために戻ってきてくれたってこと?
頭に浮かんだ問いを聞けずにいると、彼は私に見覚えのある紙袋を差し出してきた。
「好きだろ? キルフェボンのタルト」
好きだ。大好きだ。大好物だ。
「買ってきてくれたの?」
私のために? 直帰するのをやめてまで?
「チームの仕事、頑張ってもらってるからな。俺なりの社内接待」
「ありがとう……」
条件反射で頬が上がる。促されて紙袋の中の白い箱を開けると、宝石のようにフルーツが散りばめられたタルトがワンカットだけ入っている。
「あいつらには内緒だぞ?」
そう言って笑う彼は、自分がなにをしているのか自覚しているのだろうか。
こんなことされたら、私でなくたって彼のことを好きになる。