頑固な私が退職する理由
彼との最後のやりとりには、あのパーティーより前の日付が付いている。もう2週間以上前だ。
青木さん、元気かな。
きっと忙しくしてるんだろう。私に連絡しようなんて思えないくらいには。
仕事もあるし、彼を気に入っている森川社長やまりこもいる。プライベートではもっと別の出会いもあるだろう。
私のことなんて、もう思い出すことすらないかもしれない。
そう思うと切なくなって、彼と眠ったベッドに横たわった。
我が家に残る彼の痕跡は、このベッドの小さな引き出しの中に入っているコンドームだけだ。
彼が忘れて帰った着替えはすぐに洗濯して返したし、戯れに付けられたキスマークは跡形もなく消えた。
この狭いベッドの中で起こったことを思い出すと心も体もたまらなくなる。
いつまでこんな気持ちを引きずるんだろう。
動画で見たのだけれど、とある心理学者が言うことには、人は完結しなかった恋をいつまでも忘れられないらしい。
告白して振られる方がその時のダメージは大きいけれど、いずれ癒える。しかし想いを伝えられないまま離れ離れになると、心がそのことにずっと引っかかりを覚えたままになるなんだとか。
そもそも人の心は、完了していないことや決着がついていないこと、中断したことや達成できなかったことをよく覚えている傾向にある。これをツァイガルニク効果というらしい。
つまり私は今後長きにおいて、青木さんを忘れられないことが確定している。
もう一度スマートフォンを手に取り、トークアプリを開く。彼の名が見えるまでスワイプして、タップ。
メッセージの内容なんてなんでもいい。彼はきっとすぐに返信をくれるだろう。
【元気?】と入力して削除。
【スリステの動向はどう?】と入力して削除。
【あいたい】と入力し、変換せずに削除。
ダメだ。勇気が出ない。私はこの歳になって、好きな人にメッセージも送れないヘタレ女になってしまった。
諦めて戻るボタンをタップ。
少し上にスワイプして、別の名前のトークを開く。
私は気楽な気持ちでクマのキャラクターが「ヒマだ」と訴えるスタンプを送った。