頑固な私が退職する理由
……えっ? デート? まさか、青木さんと?
ドキッと鼓動が強くなり、動揺でリップオイルを掴み損ねた。運よくそのままポーチの中に落ちていったので、大事には至らなかったが。
「へぇ、彼氏できたんだ!」
自然な感じで言えた自信がない。それをごまかすため、私は唇を指で擦ってコンディションを整えるふりをした。
「いえ、まだ彼氏ってわけじゃないんですけど」
“まだ”ってどういうこと? いずれそうなりそうな雰囲気ってこと?
それとも、もうキスとかした? 盲腸の手術痕のことも、もう知ってるの?
問い詰めたい気持ちを抑え、私は自分が会社の先輩であることをしっかり意識して口を開く。
「いい感じなんだ?」
「うーん、まだわからないんですけど、誘えば応じてくれるから脈はあるかなって」
ドッドッドッドッーー
今度こそお気に入りのリップオイルを掴んだ指が、鼓動に合わせてピクピク震えている。
「そっか。うまくいくといいね」
「はいっ! がんばります!」
満面の笑みを見せた彼女の歯には、案の定塗りすぎたリキッドルージュが付いてしまっていた。
このまま私がなにも言わなければ、彼女は無意識にこの情けない姿を青木さんに見せるだろう。私自身は手を汚すことなく、彼女の印象をダウンさせることができる。
しかし、これから森川社長が来訪するのだ。会社の品格を保つためにも、このままお客さまに会わせるわけにはいくまい。
「まりちゃん、歯にリップ付いてる」
「えっ! ああっ! やだ~本当だ! 気づいてくれてありがとうございます」
私が彼女の年の頃と比べてずいぶん丸くなったものだなと、自分でも思う。
当時の私なら、あえて森川社長もいるミーティングの最中に歯についた紅を指摘して恥をかかせるくらいの意地悪を、平気でやっていただろう。
そんな私と素直な彼女。
彼がどちらを好むかなんて、考えたらなにかが終わるような気がしたから、やめた。