コイノヨカン
そうして帰ってきたアパートの前。
ここは春から社会人となり勤め始めた私が、初めて借りた場所だった。
それまでは大学の寮に住んでいたため、家具も家電も新調したばかり。

両親は実家から通える地元企業への就職を望んだが、私は都内の職場を選んだ。
そのことを後悔するつもりはない。
けれど、一人暮らしを心配していた両親に火事で焼け出されたとはとても言えない。

「栞奈さん、本当に大丈夫?」
さっきから、何度かかけられた声。

「え、ええ」
放心状態の私はまともに答えられない。

「大丈夫には見えないわね」

え?

そう言えば、突然火事の連絡を受けて困っていた私をここまで送って下さった(かえで)さん。
年齢は70代のはずなのに、いつも若々しくて元気なおばあちゃん。
心配してここまでついてきて下さったのをすっかり忘れていた。

「すみません、もう大丈夫です。わざわざついてきて下さって、ありがとうございました」
慌てて頭を下げる。

「何を言っているの、真っ青な顔をして」

さすが年の功。すっかり見抜かれている。

楓さんは私がボランティアでお邪魔しているこども園の関係者の方。
こども園は身寄りのない子や一時預かりできている子など事情のある子供達が多いのだけれど、どの子の話にもじっくりと耳を傾け優しく話す楓さんに、私は祖母の面影を重ねていた。
忙しい母にかわりほとんどの時間を祖父母と過ごしてきた私には、親しみを感じる存在。
とは言え、大学生の私にできるボランティアは限られていて、絵本の読み聞かせや、時々勉強を見てあげたり、イベント時のお手伝いなど多くても月に3,4回程度で、楓さんとも月に1度顔を合わせるかどうかの仲だった。

火事の知らせを聞きアパートに駆け出した私と偶然遭遇した楓さんが車で送って下さっただけでもありがたいのに、こうして何時間も一緒にいてもらっては申し訳ない。

「本当に大丈夫です。楓さんこそ、お忙しいんじゃないですか?」

50歳も年上の人に『楓さん』なんて失礼だけれど、こども園ではみんながそう呼んでいたから癖になってしまった。

「私のことはいいのよ」

よほど心配なのか、楓さんは帰る様子がない。
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