すてきな気持ち
待ち合わせのレストランの一角で、叔父とその彼がいた。
背広を着ていてもわかるがっしりとした後ろ姿は何となく、野球部かラグビー部か、なんて由香に思わせた。そしてすっと伸びた博樹の長い手足を思い出す。ジャケットがよく似合うまっすぐな背筋、細身のパンツを上手に着こなす、懐かしい面影。でもひょろりと細長いだけの男は好みじゃなかった。ろくに食事もとらないような不健康な男はもちろん、食べ物を平気で残す男は大嫌いだった。
「食事は大事だよ」と消化器科の博樹は口癖のようにそう言った。
そのセリフを思い出すとき、食べ残しも過剰に食べることもいけないと思ったし、日々の食事に感謝しようと思った。食べ物が目の前にあることは当たり前ではないのだ。
「お待たせしてすみませんね」と母が挨拶をして由香も頭を下げる。顔を見ると、彼は明るい顔色で、にこやかに笑って「こんにちは」と挨拶をして揃った歯並びを惜しげもなく見せた。これは上司や同僚からも受けがいいだろうな。大病院向きだ。
そんなことを思いながら由香も初対面の人に見せる明るい笑顔を見せた。
まだ料理の並ばない整ったテーブルを前に、叔父は「桜井家の話をしていました。」と義姉に向けて丁寧にほほ笑んだ。
「もう何代も続いている立派な産婦人科医院でね、有名なんですよって」
「恐縮ですわ」
叔父の言葉に長年桜井家の嫁を続けてきた母が言う。
せめて由美子さん……由香にとって父の妹にあたる叔母さんも来てくれたらもうちょっと砕けた雰囲気だっただろうにと思いながら、予想以上に堅苦しい空気を作り出す人たちにうんざりした由香が言った。
「どうも、桜井産婦人科医院の跡取り息子です」
その言葉に母親は由香をきつい視線でにらみつけた。ふざけたことを言うんじゃありません、とその鋭い目が言っていた。母娘のやりとりに叔父はどう反応しようかというように、少しだけ困った顔をして軽く笑った。
そして正面の整形外科医は一瞬だけ目を丸くしたが、次の瞬間に声を大きくして笑った。
「お話に聞いた通り、おもしろい方ですね」
爽やかな笑顔を見た母は安心したように言った。
「そう、そうなんです。冗談をよく言う子でして。退屈しないかと思います」
「前田くんも、なかなかユーモアがあってね。患者さんに人気なんですよ」
「いやー大沢先生ほどじゃないです」
そんなやりとりをして由香以外の三人の穏やかな笑い声がレストランに響いた。
由香は一人、テーブル端に立てられたメニューブックを手にとって、目についたワインをボトルで頼んだ。日曜日の昼、おいしいものを食べに来ました、という顔で。
その様子に叔父と母は困ったような顔を見せていたが、その前田くん、と呼ばれる男性は終始にこやかにしていた。
その様子に少しだけ胸が痛む。ふざけた女だ、と呆れてくれたほうが話が早いのに。
誰も悪くない。むしろこの中で一番幼稚なのは自分だとよく冷えた白ワインを口に含みながら由香は思った。過去に執着して未来を探そうとしない。大人になりたくない、と言っている子供のようなものだと思う。
ワインは思ったより酸味が強かった。
おいしくないわけじゃない。でも思っていたのと少し違う。料理と合わないわけじゃない。でも完璧ともいえない。
そんなことばかりだ。
口を洗うようにワインを流すのは、そのおいしさをごまかしているみたいであまり好きじゃなかった。
ごまかすのって、嘘をつくのと似ている。
うんと昔、子どもの頃、いつだったか由香は母親に言った。
母は全然違うわよ、と言って、でもきちんとした答えをくれなかった。
じゃあ、嘘とごまかすのはどう違うのと聞いて、嘘のほうがずっと悪いと言われたっきり、きちんとした答えは今ももらっていない。
前菜に出されたカニのフランを食べ終えると、一同の視線が自分に向けられていたことに気づいて由香は言った。
「おいしいですよ。食べたほうがいいです。たぶん次の料理を出したいってウェイターさんは思ってるはずだし」
よく言えば飾らない、悪く言えばこのお見合いの場を何とも思っていない、という娘の様子に母は静かにため息をついた。
きっと、多くの女の子たちは料理を味わうことよりも、目の前の男性によく思われたいと気を使って話をして、明るくかわいらしく微笑むのだろう。
身長は175㎝程。清潔感のある短髪で、二重瞼のはっきりした顔立ちの彼は特に悪いところなど見当たらない健康的な成人男性で、難しい仕事をきちんとしている、立派な人だ。
普通の女の子なら、自分をアピールしようと得意料理が何だとかそんな話をするかもしれない。甘い声と柔らかい笑顔で彼を癒そうとするかもしれない。
でもそんなのは由香にとって無駄だった。たった一人に必要とされればいいだけだったから。だからこういう場面、つまり初対面の男性に対して異性として魅力的として映る必要よりも、人としてのマナーを大事にして、不快にならないように接すれば十分だと思っていた。
いつだってたった一人の前で女になりたいだけ。あとはどうでもいい。博樹と出会う前も出会ってからも、今も、そう思っていた。
そしてそのたった一人は、博樹と別れた後、まだ見つかっていない。
ナイフとフォークを揃えてディナープレートに並べて食事を終えて、おいしかったですね、と笑う由香は、テーブルを囲んだメンバーからも周囲にいたスタッフから見ても、きちんとした大人として映っていたことだろう。
「ハードな仕事ですが、お互いに頑張りましょうね」
帰り際、由香が言うとその前田くんは「ええ」と笑った。印象的だったのは、これまでの見合い相手のように、期待外れ、という顔を一度もされなかったことだ。なまじ外見は女らしいものだから、由香の写真だけ見た男性は期待してしまうのだ。自分をやさしく癒してくれる女性だろう、家を暖かくして自分を待っていてくれるのだろう、と。
でも彼は期待通りとも期待していませんでしたとも違う、自然な顔で見送ってくれた。それは由香が見せたのと同じように親切で、人としてのマナーを大事にした爽やかな笑顔だった。
幸せでいて欲しい、と思った。これからもう二度と会うことがなくて、自分の人生に関係のない人であっても。
ホテルを出て母と二人きりになると、初夏の強くなり始めた日差しの中で彼女は言った。
「ねえ、素敵な方だったわね。お話、進めてもらいましょうよ」
相手がどんな人であってもこうなるのだ。そのいつもと同じセリフに、いつもと同じように由香は大きくため息をついた。
背広を着ていてもわかるがっしりとした後ろ姿は何となく、野球部かラグビー部か、なんて由香に思わせた。そしてすっと伸びた博樹の長い手足を思い出す。ジャケットがよく似合うまっすぐな背筋、細身のパンツを上手に着こなす、懐かしい面影。でもひょろりと細長いだけの男は好みじゃなかった。ろくに食事もとらないような不健康な男はもちろん、食べ物を平気で残す男は大嫌いだった。
「食事は大事だよ」と消化器科の博樹は口癖のようにそう言った。
そのセリフを思い出すとき、食べ残しも過剰に食べることもいけないと思ったし、日々の食事に感謝しようと思った。食べ物が目の前にあることは当たり前ではないのだ。
「お待たせしてすみませんね」と母が挨拶をして由香も頭を下げる。顔を見ると、彼は明るい顔色で、にこやかに笑って「こんにちは」と挨拶をして揃った歯並びを惜しげもなく見せた。これは上司や同僚からも受けがいいだろうな。大病院向きだ。
そんなことを思いながら由香も初対面の人に見せる明るい笑顔を見せた。
まだ料理の並ばない整ったテーブルを前に、叔父は「桜井家の話をしていました。」と義姉に向けて丁寧にほほ笑んだ。
「もう何代も続いている立派な産婦人科医院でね、有名なんですよって」
「恐縮ですわ」
叔父の言葉に長年桜井家の嫁を続けてきた母が言う。
せめて由美子さん……由香にとって父の妹にあたる叔母さんも来てくれたらもうちょっと砕けた雰囲気だっただろうにと思いながら、予想以上に堅苦しい空気を作り出す人たちにうんざりした由香が言った。
「どうも、桜井産婦人科医院の跡取り息子です」
その言葉に母親は由香をきつい視線でにらみつけた。ふざけたことを言うんじゃありません、とその鋭い目が言っていた。母娘のやりとりに叔父はどう反応しようかというように、少しだけ困った顔をして軽く笑った。
そして正面の整形外科医は一瞬だけ目を丸くしたが、次の瞬間に声を大きくして笑った。
「お話に聞いた通り、おもしろい方ですね」
爽やかな笑顔を見た母は安心したように言った。
「そう、そうなんです。冗談をよく言う子でして。退屈しないかと思います」
「前田くんも、なかなかユーモアがあってね。患者さんに人気なんですよ」
「いやー大沢先生ほどじゃないです」
そんなやりとりをして由香以外の三人の穏やかな笑い声がレストランに響いた。
由香は一人、テーブル端に立てられたメニューブックを手にとって、目についたワインをボトルで頼んだ。日曜日の昼、おいしいものを食べに来ました、という顔で。
その様子に叔父と母は困ったような顔を見せていたが、その前田くん、と呼ばれる男性は終始にこやかにしていた。
その様子に少しだけ胸が痛む。ふざけた女だ、と呆れてくれたほうが話が早いのに。
誰も悪くない。むしろこの中で一番幼稚なのは自分だとよく冷えた白ワインを口に含みながら由香は思った。過去に執着して未来を探そうとしない。大人になりたくない、と言っている子供のようなものだと思う。
ワインは思ったより酸味が強かった。
おいしくないわけじゃない。でも思っていたのと少し違う。料理と合わないわけじゃない。でも完璧ともいえない。
そんなことばかりだ。
口を洗うようにワインを流すのは、そのおいしさをごまかしているみたいであまり好きじゃなかった。
ごまかすのって、嘘をつくのと似ている。
うんと昔、子どもの頃、いつだったか由香は母親に言った。
母は全然違うわよ、と言って、でもきちんとした答えをくれなかった。
じゃあ、嘘とごまかすのはどう違うのと聞いて、嘘のほうがずっと悪いと言われたっきり、きちんとした答えは今ももらっていない。
前菜に出されたカニのフランを食べ終えると、一同の視線が自分に向けられていたことに気づいて由香は言った。
「おいしいですよ。食べたほうがいいです。たぶん次の料理を出したいってウェイターさんは思ってるはずだし」
よく言えば飾らない、悪く言えばこのお見合いの場を何とも思っていない、という娘の様子に母は静かにため息をついた。
きっと、多くの女の子たちは料理を味わうことよりも、目の前の男性によく思われたいと気を使って話をして、明るくかわいらしく微笑むのだろう。
身長は175㎝程。清潔感のある短髪で、二重瞼のはっきりした顔立ちの彼は特に悪いところなど見当たらない健康的な成人男性で、難しい仕事をきちんとしている、立派な人だ。
普通の女の子なら、自分をアピールしようと得意料理が何だとかそんな話をするかもしれない。甘い声と柔らかい笑顔で彼を癒そうとするかもしれない。
でもそんなのは由香にとって無駄だった。たった一人に必要とされればいいだけだったから。だからこういう場面、つまり初対面の男性に対して異性として魅力的として映る必要よりも、人としてのマナーを大事にして、不快にならないように接すれば十分だと思っていた。
いつだってたった一人の前で女になりたいだけ。あとはどうでもいい。博樹と出会う前も出会ってからも、今も、そう思っていた。
そしてそのたった一人は、博樹と別れた後、まだ見つかっていない。
ナイフとフォークを揃えてディナープレートに並べて食事を終えて、おいしかったですね、と笑う由香は、テーブルを囲んだメンバーからも周囲にいたスタッフから見ても、きちんとした大人として映っていたことだろう。
「ハードな仕事ですが、お互いに頑張りましょうね」
帰り際、由香が言うとその前田くんは「ええ」と笑った。印象的だったのは、これまでの見合い相手のように、期待外れ、という顔を一度もされなかったことだ。なまじ外見は女らしいものだから、由香の写真だけ見た男性は期待してしまうのだ。自分をやさしく癒してくれる女性だろう、家を暖かくして自分を待っていてくれるのだろう、と。
でも彼は期待通りとも期待していませんでしたとも違う、自然な顔で見送ってくれた。それは由香が見せたのと同じように親切で、人としてのマナーを大事にした爽やかな笑顔だった。
幸せでいて欲しい、と思った。これからもう二度と会うことがなくて、自分の人生に関係のない人であっても。
ホテルを出て母と二人きりになると、初夏の強くなり始めた日差しの中で彼女は言った。
「ねえ、素敵な方だったわね。お話、進めてもらいましょうよ」
相手がどんな人であってもこうなるのだ。そのいつもと同じセリフに、いつもと同じように由香は大きくため息をついた。