すてきな気持ち
土曜日の午前中の診察を終えて、休憩室で昼食を摂ろうとしていると、熱い緑茶を注ぎながら三城ちゃんが楽しそうに由香に話題を振った。
「先週、由香先生、お見合いしてたってほんとですか?」
卵をたっぷりと混ぜた病院人気メニューのタルタルソースをかけたエビフライを持つ手を止めて、由香はその三城ちゃんの笑顔に視線を向けた。
なんで知っているのだ、と言わなくても伝わったようで、続けて三城ちゃんは言った。
「佐藤さんもちょうどその日ホテルでランチをしていたみたいで。見かけたそうです。素敵な方だったらしいじゃないですか」
佐藤さん、というのも病院のスタッフだ。たまに一緒に仕事をすることもある。
そこに綿貫さんが「何、何、どうしたの」と好奇心たっぷりに会話に加わった。
由香先生のお見合い話ですよ、と三城ちゃんが言うと綿貫さんはすでに知っていたように、ああ、と微笑んだ。
「どんな人だったんですか?もうちょっと情報ください」
もうすぐ三十歳になろうという三城ちゃんがまるで女子高生のように瞳を輝かせて楽しそうに恋の話を期待していた。その様子に対していつもと変わらないトーンで、ごはんを口に運びながら由香は言う。
「三十三歳、整形外科医。大学病院勤務。」
「なんですかそれ。履歴書みたいな情報じゃなくて、もっとこう、誰か似ている芸能人とか、雰囲気とか、発展しそうな感じがあるかどうかが知りたいんですよ」
よく覚えてないわ、と由香が言うと三城ちゃんと綿貫さんはつまらなそうな顔をした。
覚えているのは、歯並びが揃っていて、笑顔が明るかったこと。しっかりした肩幅で、健康的だったこと。それは、間違いなかった。
ぽつりぽつりとそんな話をして、周囲は次第に興奮していくものの、昼食を一通り食べ終えて少しだけぬるくなった緑茶を啜った由香は最後に言った。
「博樹とは、少しも似ていなかったわ」
その言葉に由香の歴史を知っている二人は切なさと悲しさが半々くらいの険しい顔をして、それ以上、その会話はしなかった。
しかしその就業後だった。
事務作業などを終えてケーシーを脱いで、一つに束ねた髪の毛をほどいて、ラフなシャツ着替えてに紺色のパンツを履いて、戸締りをして、最後まで一緒にいた三城ちゃんと帰ろうとしたときだった。
左右にある街頭の真ん中あたりの病院の前に黒い日産のSUVが止まっていて、一人の男性が立っているのがわかった。
「お疲れ様です」
先日会った、前田くん、と呼ばれる彼だった。
「なんで」
呆然とする由香に、彼はごく普通に、でも先日見せてくれたのと同じ健康的な笑顔を見せて言った。暗闇の中でもはっきりとわかる、明るい表情だった。
「食事にお誘いしようと思って。ああ、ご両親からは許可をもらってきたので」
隣にいた三城ちゃんはすかさず由香の腕をぎゅっと強く掴んだ。それだけで彼女が何を言いたいのか、何に対して興奮しているのかがわかる。
「先約がありました?」
そう言って、彼は三城ちゃんに話しかけた。
三城ちゃんは、私は家に帰るだけですから、楽しんできてくださいと、すべてをわかりきった顔でさっと歩いて駅のほうまで向かって行った。お疲れ様でした、と去っていくときの彼女の顔は「頑張ってきてください」とも「報告待ってます」とも言っているようだった。
その背中がすっかり小さくなって角を曲がって見えなくなると、二人きりになった病院の駐車場で由香は少しだけ強い口調で言った。
「何を考えてるの」
「さっき言った通り。食事をご一緒したいなと思って。僕は一人暮らしだし、こっちに住んでまだ1年くらいで友達も特にいなくて。一人で入りにくいお店ってあるじゃない。あ、由香さんの夕食、今日は用意しないって。」
母のことなので、本当に用意していないだろうな、と思った。同時に、嬉しそうな母の顔も浮かんでくる。呆れたように由香は笑って言う。
「意外と強引なの?」
「大丈夫、許可はもらってあるから。おいしいものを食べに行こう」
そういって笑顔で助手席のドアを開けられると、なんだかついて行ってもいいような気がした。
とりあえず余計なことは考えなくていい。
そう言ってくれているような笑顔は健全で明るくて、まぶしかったから。