偽装懐妊 ─なにがあっても、愛してる─
彼は先に窓に背を向け、歩き出した。私はその背中に付いていき「八雲さんっ」と呼び掛けるが、彼はスタスタと行ってしまう。
「中央エレベーターから行きますよ。一階にいた来訪者はざっと四十名ほどでしたから、もう捌けているころです」
「えっ、あのっ」
「十七階の社長室は、中央エレベーターの降り口から行くのが一番近い。行きましょう。……なかなか楽しい寄り道でした」
中央エレベーターまでの道を躊躇なく進んで行く彼の背中を追いかけながら、私は胸の鼓動を抑えられずにいた。
若いのにこんな大きなオフィスを手がけたという優秀な建築士さんだからか。私が男性に免疫のない経験不足な女だからなのか。
はたまた、こんな私に呆れずに笑ってくれた素敵な人だからか。
その日は案内だけで終わり、彼を忘れられないまま数日が経った。
すると後日、なんと彼は私の自宅にやって来たのだ。
「凪紗、建築士の八雲くんだ。一度会っているはずだから、覚えているだろう。腕がいいからうちの別荘のリノベーションもお願いすることにしたんだ。ご挨拶しなさい」
父に促されるまま、相変わらず素敵な立ち姿の彼にお辞儀をする。
「こ、こんにちは、八雲さん……」
「こんにちは」
会釈を返してくれた彼に微笑まれ、父が席を外した隙にコソッと「別荘は中で迷わない造りにするからね」と冗談をささやかれたとき、私は自分の恋心を自覚したのである。