人気声優が激甘ボイスを囁くのは私だけ。
「えっ?痛くないって…?」
「声大きいです」
天くんは私の腕から手を離し、人差し指をくちびるの前で立てて、「静かに」と合図をする。私は慌てて口を閉じた。
「現場がピリピリしていたから。居心地悪くて抜け出したんです」
私に視線を合わせないようにしながら天くんは言う。その様子を見て、私の頭の中にひとつの仮説が浮かんだ。
「ねぇ、天くん」
「……なんですか」
「ありがとう」
心からの感謝の気持ちを込めて、そう言う。しかし、天くんはそんな私の言葉を慌てて否定した。
「ちっ、違います。別にあすかさんのためにしたわけじゃありません。ほんとにスタジオから出たかっただけで」
顔を赤くしながらぺらぺらと弁解を続ける天くん。いつも大人びてて私をからかってくる彼が、なんだかいつもより幼く見えた。
「私は天くんはそんな不真面目な人じゃないって知ってるけど?」
「っ…」
図星だったのか天くんは息を飲み、そして諦めたように息を吐いた。
「はぁ。もう、ほんとに。………そうですよ。あすかさん、すっごい緊張してたから。このまま続けてもいい演技はできないと思って」
さらさらの髪をくしゃくしゃとかき回しながらそう言葉をこぼす天くん。清潔感のあるいい匂いがふわっと部屋に広がる。その匂いを小さく吸い込んで、私は言う。
「ほんとにありがとう、天くん。あの音監さん、厳しそうですごく緊張してたから」
「厳しいのは作品を愛してる証拠ですから大丈夫ですよ。それにあの人、娘さんのこと超溺愛してるんです。言えば娘さんの写真、たくさん見せてくれますよ。休憩のときにでも話しかけてみればどうですか?」
おどけた調子でそう言い、綺麗な顔をくしゃっと崩して天くんは笑った。つられて私も笑みを返す。
「そうなんだ。いいこと知っちゃった」
「こんなこと教えるの、あすかさんだけですよ。………そろそろ戻りましょうか。じゃないとスタッフさんに怒られちゃいます」
天くんは私に手を差し出す。
「モカ。おまえ鈍くさいんだから手、握っとけ」
天くんの地声より少し低い、感情を抑えた冷たい声。それがカナトくんのものだということに気づくのに時間はかからなかった。
「うっさい、カナト。……でもありがと」
気を利かしてくれた天くんの行動に、私もモカの声で返した。
―――握った天くんの手はとても大きくて、少し冷たかった。
「ご迷惑おかけしました」
スタジオに戻ると、天くんは大きな声でそう言い、ぺこりと頭を下げた。
天くんは悪くないのに………胸が苦しくなる。
「もう平気?」
「はい、おかげさまで」
「じゃあもう再開しちゃおうか。時間押してるからね、ちゃっちゃといきましょう」
音監さんのその声で、現場は再び動き出す。スタジオに置かれた椅子で台本をめくっていたキャストさんたちも、マイク前へと移動する。
「では、14ページの9行目から始めまーす」
さっき私が言えなかった、モカがカナトに軽口を叩くシーンだ。私はそっと深呼吸をして、テレビ画面と向き合う。収録開始の合図が鳴った。
「『カナトが怖くて、仲間なんてできないと思うけどなー』」
「『はぁ!?おいモカ…今、なんて言った?』」
「『別になにもー?』」
ぽんぽんとリズミカルに会話が進んでいくのが自分でも分かった。美月さんや周りのスタッフさんたち表情が、安心したように緩んでいくのを感じた。カットの声は、かからない。
「『嘘つけ』」
「『ついてないですー。カナトの幻聴じゃない?老化だよ老化』」
チッ、と舌打ちをするカナト。台本に書かれていないアドリブだ。話にアクセントを加えることになったそれに周りのスタッフさんが感心の息をもらす。
(さすが、超大型声優…。すさまじい演技力と場の空気を読んだアドリブ力……すごいなぁ)
「『モカとそんなに年変わらないだろうが』」
「『そーだったっけー?』」
アフレコは着々と進んでいく。美月さんや桜さん―――ルカやユーリも、テンポよく進む会話に楽しそうに参加する。
「『あれじゃない?カナトくん、いつもイライラしてるから老けてみえるんじゃない?』」
「『おいルカ。さっきの言葉、もう1回言ってみろ…?』」
「『あーあ。火に油ですよ、ルカ』」
―――こうして、この日の収録はその後大きなミスもなく終わった。
キャストさんやスタッフさんに一通り挨拶をしたあと、私は控え室に戻り、スマホで家へ帰るための電車の時刻を調べ始めた。
「ここから駅までが10分だから、これは乗れないでしょ。だから次は今から20分後の……」
「なーにしてるんですかっ?あ、もしかして帰りの電車調べてたりします?」
突然、天くんが現れた。天くんはびっくりして固まっている私の手からスマホを取り上げると、画面をちらっと見て言った。
「あ。駅、俺と同じじゃないですか。俺、今日はもう仕事ないんですよ。だから途中まで行きましょうよ、一緒に」
「えっ?」
突然の申し出に戸惑ってしまう。そんな私のリアクションを見て、天くんは悲しそうな顔になった。
「嫌…ですか?」
不安そうに眉を下げる天くん。母親を探す、生まれたての子犬のようなその表情がかわいくて、胸が甘く鳴る。
「全然嫌じゃないよ!突然で、びっくりしただけ」
「そうですか…よかった」
天くんは安心したように息を吐いた。なんだか嬉しそうな天くんを見ていると、なんだかこちらまで嬉しい気持ちになる。
「駅についてからもちよっと時間あるし、売店でお菓子奢ってあげるね」
そう言うと、天くんは大きな目を見開いた。……驚いたのだろうか。
「え、いいですよ!気を使わなくても」
「ううん。今日助けてくれたから、そのお礼に」
「お礼……」
視線をあちこちに動かしながら悩む天くん。返答を考えあぐねているようだ。なので私が「遠慮しなくていいよ」と言うと
「そこまで言うなら、奢らせてあげます」
と、いつものいたずらっ子の笑みを浮かべた。天くんらしい言い方に、思わず笑ってしまう。
「奢らせてあげるって、なにそれ」
「そのまんまの意味です」
今度は2人、顔を見合わせて笑う。私たちだけしかいない部屋に、ふたつの笑い声が響く。
「あははっ、じゃあ早く行かないとね。お菓子選ぶ時間がなくなっちゃう」
「そうですね」
急いで荷物をバックに詰め、天くんと一緒に建物を出る。いつの間にか、天くんはメガネをかけていた。デビュー1年目とはいえ、城野天という名前を知る人は多い。アニメ雑誌だけではなく、オシャレなファッション雑誌にまで特集を組まれるほどのイケメンだからそのキラキラオーラを隠すための変装なんだろう。
駅までなるべく人通りの少ない道を選んで歩いた。街の風景を楽しみつつ、仕事のことやお互いのことを話していたらいつの間にか駅についていた。
「なにがいい?」
財布の中身を確認しながら私は聞いた。大丈夫、よほど高いものじゃなければ買える。収入が不安定な駆け出し声優の財布の中は月によって大きく変動する。今月は『グリムアップル』関連の仕事が増えたおかげでいつもより多くお金を頂いたので天くんに奢るくらいは大丈夫だが、まだまだ油断していいほどの蓄えではない。
「うーん……あ、あそこのドーナツがいいです」
「ドーナツね、了解」
都内に数店舗展開する老舗のドーナツ店で、チョコドーナツを2つ買う。
そのうちのひとつを天くんに渡し、2人で構内のベンチに座って食べる。
「あすかさんもチョコ味ですか?」
「うん。ここで買うのは絶対チョコ味って決めてるの」
私の言葉に天くんは笑う。
「なんだかあすかさん、子供みたいですね。…かわいい」
「………え?」
「あ、俺の電車来たみたいです。ドーナツごちそうさまでした。じゃあ、また次の収録で」
そう言い残して、天くんは電車に乗り込んだ。ドア越しに手を振る天くんに、私も手を振り返す。
やがて電車は発車のアナウンスをひとつすると、ゆっくりと動き出した。
天くんの姿が見えなくなる。
私は振り続けていた手をおろす。
そしてその手をそっと胸に置いてみる。
―――鼓動が、とても早くなっていた。
「声大きいです」
天くんは私の腕から手を離し、人差し指をくちびるの前で立てて、「静かに」と合図をする。私は慌てて口を閉じた。
「現場がピリピリしていたから。居心地悪くて抜け出したんです」
私に視線を合わせないようにしながら天くんは言う。その様子を見て、私の頭の中にひとつの仮説が浮かんだ。
「ねぇ、天くん」
「……なんですか」
「ありがとう」
心からの感謝の気持ちを込めて、そう言う。しかし、天くんはそんな私の言葉を慌てて否定した。
「ちっ、違います。別にあすかさんのためにしたわけじゃありません。ほんとにスタジオから出たかっただけで」
顔を赤くしながらぺらぺらと弁解を続ける天くん。いつも大人びてて私をからかってくる彼が、なんだかいつもより幼く見えた。
「私は天くんはそんな不真面目な人じゃないって知ってるけど?」
「っ…」
図星だったのか天くんは息を飲み、そして諦めたように息を吐いた。
「はぁ。もう、ほんとに。………そうですよ。あすかさん、すっごい緊張してたから。このまま続けてもいい演技はできないと思って」
さらさらの髪をくしゃくしゃとかき回しながらそう言葉をこぼす天くん。清潔感のあるいい匂いがふわっと部屋に広がる。その匂いを小さく吸い込んで、私は言う。
「ほんとにありがとう、天くん。あの音監さん、厳しそうですごく緊張してたから」
「厳しいのは作品を愛してる証拠ですから大丈夫ですよ。それにあの人、娘さんのこと超溺愛してるんです。言えば娘さんの写真、たくさん見せてくれますよ。休憩のときにでも話しかけてみればどうですか?」
おどけた調子でそう言い、綺麗な顔をくしゃっと崩して天くんは笑った。つられて私も笑みを返す。
「そうなんだ。いいこと知っちゃった」
「こんなこと教えるの、あすかさんだけですよ。………そろそろ戻りましょうか。じゃないとスタッフさんに怒られちゃいます」
天くんは私に手を差し出す。
「モカ。おまえ鈍くさいんだから手、握っとけ」
天くんの地声より少し低い、感情を抑えた冷たい声。それがカナトくんのものだということに気づくのに時間はかからなかった。
「うっさい、カナト。……でもありがと」
気を利かしてくれた天くんの行動に、私もモカの声で返した。
―――握った天くんの手はとても大きくて、少し冷たかった。
「ご迷惑おかけしました」
スタジオに戻ると、天くんは大きな声でそう言い、ぺこりと頭を下げた。
天くんは悪くないのに………胸が苦しくなる。
「もう平気?」
「はい、おかげさまで」
「じゃあもう再開しちゃおうか。時間押してるからね、ちゃっちゃといきましょう」
音監さんのその声で、現場は再び動き出す。スタジオに置かれた椅子で台本をめくっていたキャストさんたちも、マイク前へと移動する。
「では、14ページの9行目から始めまーす」
さっき私が言えなかった、モカがカナトに軽口を叩くシーンだ。私はそっと深呼吸をして、テレビ画面と向き合う。収録開始の合図が鳴った。
「『カナトが怖くて、仲間なんてできないと思うけどなー』」
「『はぁ!?おいモカ…今、なんて言った?』」
「『別になにもー?』」
ぽんぽんとリズミカルに会話が進んでいくのが自分でも分かった。美月さんや周りのスタッフさんたち表情が、安心したように緩んでいくのを感じた。カットの声は、かからない。
「『嘘つけ』」
「『ついてないですー。カナトの幻聴じゃない?老化だよ老化』」
チッ、と舌打ちをするカナト。台本に書かれていないアドリブだ。話にアクセントを加えることになったそれに周りのスタッフさんが感心の息をもらす。
(さすが、超大型声優…。すさまじい演技力と場の空気を読んだアドリブ力……すごいなぁ)
「『モカとそんなに年変わらないだろうが』」
「『そーだったっけー?』」
アフレコは着々と進んでいく。美月さんや桜さん―――ルカやユーリも、テンポよく進む会話に楽しそうに参加する。
「『あれじゃない?カナトくん、いつもイライラしてるから老けてみえるんじゃない?』」
「『おいルカ。さっきの言葉、もう1回言ってみろ…?』」
「『あーあ。火に油ですよ、ルカ』」
―――こうして、この日の収録はその後大きなミスもなく終わった。
キャストさんやスタッフさんに一通り挨拶をしたあと、私は控え室に戻り、スマホで家へ帰るための電車の時刻を調べ始めた。
「ここから駅までが10分だから、これは乗れないでしょ。だから次は今から20分後の……」
「なーにしてるんですかっ?あ、もしかして帰りの電車調べてたりします?」
突然、天くんが現れた。天くんはびっくりして固まっている私の手からスマホを取り上げると、画面をちらっと見て言った。
「あ。駅、俺と同じじゃないですか。俺、今日はもう仕事ないんですよ。だから途中まで行きましょうよ、一緒に」
「えっ?」
突然の申し出に戸惑ってしまう。そんな私のリアクションを見て、天くんは悲しそうな顔になった。
「嫌…ですか?」
不安そうに眉を下げる天くん。母親を探す、生まれたての子犬のようなその表情がかわいくて、胸が甘く鳴る。
「全然嫌じゃないよ!突然で、びっくりしただけ」
「そうですか…よかった」
天くんは安心したように息を吐いた。なんだか嬉しそうな天くんを見ていると、なんだかこちらまで嬉しい気持ちになる。
「駅についてからもちよっと時間あるし、売店でお菓子奢ってあげるね」
そう言うと、天くんは大きな目を見開いた。……驚いたのだろうか。
「え、いいですよ!気を使わなくても」
「ううん。今日助けてくれたから、そのお礼に」
「お礼……」
視線をあちこちに動かしながら悩む天くん。返答を考えあぐねているようだ。なので私が「遠慮しなくていいよ」と言うと
「そこまで言うなら、奢らせてあげます」
と、いつものいたずらっ子の笑みを浮かべた。天くんらしい言い方に、思わず笑ってしまう。
「奢らせてあげるって、なにそれ」
「そのまんまの意味です」
今度は2人、顔を見合わせて笑う。私たちだけしかいない部屋に、ふたつの笑い声が響く。
「あははっ、じゃあ早く行かないとね。お菓子選ぶ時間がなくなっちゃう」
「そうですね」
急いで荷物をバックに詰め、天くんと一緒に建物を出る。いつの間にか、天くんはメガネをかけていた。デビュー1年目とはいえ、城野天という名前を知る人は多い。アニメ雑誌だけではなく、オシャレなファッション雑誌にまで特集を組まれるほどのイケメンだからそのキラキラオーラを隠すための変装なんだろう。
駅までなるべく人通りの少ない道を選んで歩いた。街の風景を楽しみつつ、仕事のことやお互いのことを話していたらいつの間にか駅についていた。
「なにがいい?」
財布の中身を確認しながら私は聞いた。大丈夫、よほど高いものじゃなければ買える。収入が不安定な駆け出し声優の財布の中は月によって大きく変動する。今月は『グリムアップル』関連の仕事が増えたおかげでいつもより多くお金を頂いたので天くんに奢るくらいは大丈夫だが、まだまだ油断していいほどの蓄えではない。
「うーん……あ、あそこのドーナツがいいです」
「ドーナツね、了解」
都内に数店舗展開する老舗のドーナツ店で、チョコドーナツを2つ買う。
そのうちのひとつを天くんに渡し、2人で構内のベンチに座って食べる。
「あすかさんもチョコ味ですか?」
「うん。ここで買うのは絶対チョコ味って決めてるの」
私の言葉に天くんは笑う。
「なんだかあすかさん、子供みたいですね。…かわいい」
「………え?」
「あ、俺の電車来たみたいです。ドーナツごちそうさまでした。じゃあ、また次の収録で」
そう言い残して、天くんは電車に乗り込んだ。ドア越しに手を振る天くんに、私も手を振り返す。
やがて電車は発車のアナウンスをひとつすると、ゆっくりと動き出した。
天くんの姿が見えなくなる。
私は振り続けていた手をおろす。
そしてその手をそっと胸に置いてみる。
―――鼓動が、とても早くなっていた。