星空とミルクティー

音を立てずに壁から離れて、玄関のドアを見つめる。
マダムが乗り込んでくる気配はなかった。



 テレビを消して、あと15分経ったら平野君の部屋に行こうと決めた。

あの金切り声はただごとではない。でももし、さっき出て行ったのが平野君だったらどうしよう……。


 また壁に耳を押し付ける。無音。手でこぶしを作って壁に当ててみる。ーーコン、コン。

平野君、大丈夫?
応答はない。



 それから突然。なんの気配もなく、家の呼び鈴が鳴った。

飛び上がった拍子に太ももをテレビにぶつける。


 口から心臓が飛び出しそうになりながら、足音を立てないように廊下を歩き、玄関のドアスコープを覗く。

ーー平野君だ。

チェーンをかけたままゆっくりと鍵を開ける。マダムが飛び出して来たら怖い。



「……はい」

「あ。お姉さん、さっきはすみません、うるさかったでしょう」



 コンビニの袋を掲げて、「お詫びです」と平野君が申し訳なさそうに笑った。



「ちょっと待ってね、今チェーン外す」



 一旦ドアを閉めてチェーンを外してからまた開ける。



「はい。さっきはうるさくしてすみませんでした」



 コンビニの袋ごと手渡される。

ちらりと見えた中には焼きプリンが入っていた。

1ヵ月ぶりに見た平野君は、日焼けがすっかり落ち着いてまた初めて会ったときのように体の線が細くなっていた。

ロングTシャツにも隙間があるように見える。
というか、10℃あるかないかのこの外気温で、薄手のシャツ1枚はさすがに寒いと思うけど……。



「いや、大丈夫。すごい怒ってたね、お母さん。びっくりした」

「……あの人、母親じゃないですよ」

「え?」

「じゃ、おやすみなさい」



 聞き返そうとすると、頭を下げてすぐ隣のドアを開けてさっさと入ってしまった。

母親じゃないってなんだ? 思春期特有の「うるせえ、くそババア」みたいなもんか?

でもさっきの平野君の表情と声は、そんな感じじゃなかった。
もっと、本当に他人だとでもいうような。冷たくて低かった。


 父の店でも何も食べずコンビニにも寄れず、自炊をする気力もなかったけど、手元に残るワケアリ焼きプリンは今すぐ食べたいとは思えなかった。






 時計を見ては何度も帰りたい気分になった。

発車時刻と終着駅の描かれた電光掲示板の表示が消えるたび、「あれに乗って帰るはずだったのに」と思う。



 石川さんとは19時に駅で待ち合わせたのに、18時半に「少し遅れる」と連絡が来たきり、20時過ぎても一向に現れなかった。

アホくさ。金曜日の夜に待ちぼうけ食らって。しかも彼氏でも友達でもなんでもないやつに。


 携帯を取り出して電話をかけると、すぐに留守番電話サービスにつながった。

このまま帰ることを告げて、また日を改めましょうと優しく言ってやる。

優しすぎるだろ、あたし。日を改めるつもりはないのにさ。


 改札を抜けて駅のホームに続くエスカレーターに足をかける。



「結城さん!」



 3段分を進んだところで名前を呼ばれた。振り向くと改札の外で石川さんが立っていた。



「あ」



 声が出る。だけどエスカレーターはどんどん進んでいく。

あらららら。これは一旦上まで行ったほうがいいんじゃないか。

手に持っていた携帯が鳴る。



「ちょっと待って、ごめん、遅れて、帰らないで」

「今、エスカレーターなので1回上がっちゃってから下に降りますね」



 いくらなんでも焦りすぎじゃないか? 1時間も遅刻したから怒ってると思われたんだろうな。
まぁ、律儀に待っていた自分に呆れてはいたけど。

 上りのエスカレーターを降りて今度は下りのエスカレーターに乗る。

なにしてんだろう、あたし。こんなこと初めてしたよ。


 エスカレーターの終着点には、改札を超えたらしい石川さんがあたしの顔を見るなりほっとしたように笑った。

もう少しで着くというところで腕が伸びてきて体を引き寄せられる。一瞬、体が宙に浮いた。



「すみません、かなり遅刻しました」



 耳元で謝られる。妙にくすぐったくて体を離すようによじって腕から抜け出す。

こういうの、慣れてないから恥ずかしい。恋愛ドラマじゃねえんだから。



「……お疲れ様です。あ、留守電聞きました?」

「留守電?」

「はい、さっき入れたんですけど、忙しそうだったら日を改めようと」

「すみません、運転中で。かなり待たせたけど、今から飯でもいいですか?」



 本音を言うなら早く帰りたい。だけど日を改めてまた待たされるのも嫌だったから、この1回で終わりにするつもりで了承した。

改札を逆戻りして駅を出て、ハザードがつけっぱなしのまま路上駐車してあるセダンの助手席に案内される。


「だいぶ待たせたから腹減ったでしょ。申し訳ない」

「いえ、大丈夫です」

「なにか食べたいとか、希望はある?」

「待ち時間がかからないなら何でも」

「そっか、じゃあ俺が選んでもいい?」

「はい、お任せします」



 車は駅のターミナルを抜けてベイブリッジを走る。

ビルや電波塔の光が窓に反射するのを夢中で眺める。

普段、車に乗らないからこういう景色は新鮮だった。オレンジ色の街灯が明るすぎて、夜なのに夕暮れみたいだ。ワクワクする。




 しばらく走って連れてこられたのは焼肉店だった。

コース料理だったらどうしようと思っていたから、なかなか庶民的で安心する。

単品で何種類か選んで、肉が焼けるまですぐに食べられるものも頼んだほうがいいと言われてサラダも注文する。


「酒は? 飲んでいいよ。帰りは送っていくし」

「石川さんが飲まないのにあたしだけ飲むのダメじゃないですか」

「気にしなくていいよ、そんなの」



 注文したものが届くまで、あたし達は1か月前の合コンの思い出話をした。

思い出というほどではないけど、共通の話題はこれしか無かったし、場を繋ぐくらいにはなった。



「結城さんが帰ってからさ、あの6人で飲みに行ったみたいだよ」

「そうなんですか」

「あまり楽しくなかった?」

「料理は美味しかったですけど」

「あぁ、すごい集中して食べてたよね」

「そうですね」



 焼肉店の中で、別の店のコース料理を褒める。

最後辺りは石川さんの視線が気になって味がわからなかったけど、メインの肉料理はまた食べたい。


「今度また行こうか?」

「え」



 返事をするところで、注文したものが続々届けられた。会話が途切れてよかった。

あのコース料理は食べたいけど、石川さんとは嫌だ。

あのクラシックが流れるようなかしこまった雰囲気の中、半個室に1対1なんて、それこそきっと前菜から味がしない。



 サラダを食べていたら、石川さんがトングを片手に次々と肉を焼き始めた。

あ、やばい。自分の腹を満たすことしか考えてなかった。

「肉、焼きます」と1つしかないトングをもらおうと手を伸ばす。



「いいよ。サラダ食べてなよ。俺、焼くのに集中してるから」

「いや、でも」

「だって俺、他に食うの頼まなかったし」


 そう言われて見ると、石川さんの前には烏龍茶と水しかない。



「お腹空いてませんか」

「そりゃ空いてるけど」

「サラダ食べます?」



 友達同士でやるように、食べかけの皿の差し出した。

石川さんがきょとんとしている。

その顔を見てようやく間違えたと気づく。


「すみません、新しいやつ頼みますね。サラダくらいだったらすぐ来ると思うし」


 メニューを取ってサラダの項目を探す振りをしながら顔を隠す。

学生だったら初対面でもノリで回し食いしてたからな。

でも社会人になった今はそれが通用しないんだもんな。



「食っていいの?」

「はい?」

「それ。サラダ」

「……新しいの頼みますよ」

「じゃあそれ来るまで少しちょうだい」



 石川さんが店員を呼んで、メニューを見ずにあたしと同じサラダを注文する。

ちらりと視線があってメニューを戻してから、石川さんの目の前にサラダが入った皿を押してやる。

「冗談だよ」と笑いながら皿が戻ってくる。



「結城さんは、なんであの飲み会に参加したの?」

「人数合わせです」

「しょっちゅう?」

「いえ、時間があえば行く感じで。あ、あと場所。この前は行ったことなかったから」



 話しながら、美味しそうに焼けた肉が小皿に入っていく。

タレや塩の入った調味料ケースを取りやすいようにあたし達の間に移動させる。

別に待っていたわけじゃないけど、石川さんの肉をひっくり返す手元を見ていたら「食っていいよ」と声がかかった。



先に失礼して脂の滴るカルビを頬張る。
やっと食事にありつけた喜びで胃が収縮する。ドレッシングをかけた葉っぱなんて比じゃない。



「あの店、予約したの俺なんだよね。大事な食事会だっていうからちゃんとしたところを選んだのに、実際あれって合コンでしょ。俺らすごい場違いだったよね」

「……そうかもしれません。あまり大きな声で会話するような店ではなかったですね」

「そうそう。結城さん以外、喋ってばっかで全然料理進まないし、帰ろうかと思ってた」
「なんか、すみません」

「あぁ、違う。そうじゃなくて、愚痴っぽくなったけど結城さんがいてくれてよかったってこと。ちゃんと料理に集中してくれる子がいて、嬉しかったから」



「だから今日誘ったんだよ」と石川さんが目を細めた。

ただ人間の三大欲求のひとつを満たしているだけなのに、こんな喜ばれることってあるか? 

少なからず好意を持たれていることはいくらあたしでもわかるけど、こんなにわかりやすくちゃ少しむずがゆい。


どう答えていいかわからなくて、小皿に積み上げられていく肉を口の中に押し込む。かろうじて味はする。


「そういや結城さんって、横内さんと同期って聞いたけど、てことは25歳?」

「同期は同期ですけど、あたしは専門卒なんで23です」

「へぇ、若いね」

「……石川さんはいくつですか?」

「俺はねーって、この前初めにみんなで自己紹介したとき言ったと思うんだけど」

「すみません、覚えてないです」

「本当に料理に集中してたんだな」

「で、いくつですか?」

「んー?28。なんか23歳の子の後に言いたくないな」

「ふうん。5こ上なんですね」

「興味ないでしょ、その反応」

「いえいえ、そんなことは」



 あたしの適当な返答に、石川さんが頭を下げて声を出さずに肩だけ震わせる。

素っ気ないとは思ったけど、初めて会ったときは相手の情報が全く無くて会話もままならなかったから、石川さんのことが少しわかって安心した。


 あたしは昔からクラス替えで初対面の人が増える度に緊張して、自分から話しかけるタイプではなかった。

むしろ自分の席にずっと座って、話しかけられるのを待っているような。

 一方で石川さんは、1週間でクラスの中心になれるような人とは正反対のタイプに見える。

何も知らない人にも、笑顔で話しかけてくるコミュニケーション能力の高さが、眩しくて居心地悪い。

だから最初は身構えてしまった。





 それから肉を堪能しながら、この前の合コンを再現するかのように改めて自己紹介をした。


 石川さんはあたしのフルネームも会社名も覚えていたのに、あたしはもらった名刺に書かれた以外何も覚えていなくて(たぶん運ばれてくる料理を見ていた)、苦笑された。


 しっかり向き合って聞くと、何やら宇宙関連の小難しい事業をしているなかなか優秀なポジションにいることがわかった。

なるほど、合コンでスペースデブリの話題が出てくるわけだ。

 だけどここまで聞いてもあたしの頭では、石川冬弥という人間は「なんかすごい人」という感想だった。


 横内明日香あたりならこのスペックに「えぇ〜、すごいですねぇ!」とか拍手をしながら言ってそうなんだけど。

すごさに現実味がないというか、自分とは縁が無さすぎていまいち素直に驚けない。

 うまい肉を食べて、一緒にうまいうまい言い合える人だったらそれでいい。



「本当にここでいいの? これから電車に乗るなら家まで送るけど」

「大丈夫です。少し買い物したいし」

「こんな時間に?」

「こんな時間に」



 あの倒壊しそうなボロアパートを見られるのは嫌だ。軽い押し問答の末、石川さんが折れてくれた。

 車から降りたところで助手席の窓が開く。



「じゃあ、また誘っていい?」

「……いいですよ」



 一度目はすんなり引き下がったところで、二度目の要望を伝えてくる。

そうやって相手の良心を刺激して断られないようにするのが、石川冬弥の使う常套手段だと気づいたのは、大分先のことだった。


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