星空とミルクティー
冷たい空と行き先のない靴






 それから、石川さんとは曜日はバラバラだけど、週に一度は一緒にご飯を食べるようになった。

コース料理はかしこまっていて嫌だと言ったら、チェーン店の居酒屋やカロリーの高そうなラーメン屋だったり、豚バラが絶品だという串焼き屋だったり、時間を持て余した学生が好みそうな店に連れていってくれた。


 横内明日香は「もっと高い店に連れてってもらえばいいのに」と笑ったけど、あたしはそういう庶民的な店のほうが緊張しないで済むからそっちのほうがよかった。



 初めは遠慮していた酒も何度も気にしないでと言われたら飲むし、送るよと言われたら家の近くのコンビニの駐車場まで送ってもらうようになった。さすがに家までは無理だけど。


 家まで送ると何度も言われたけど、アパートを見られるのは嫌だったし、部屋に「入りたい」なんて言われたらと思うと、勝手にその先を想像してしまって怖くなる。

まだそこまでの心の準備ができていない。



「今度はさ、汐が店決めてよ」

「あたしに任せたらこの前の居酒屋になりますよ」

「本当に酒好きだね」

「外で飲むのが好きなんです。居酒屋、1人だと入りづらいし」



 石川さんのあたしの呼び方がいつの間にか「汐」になっていることに気付かない振りをして話を続けて、毎回同じように家の近くのコンビニで降ろしてもらう。


 恋人になる直前の久しぶりの甘ったるい感覚に頬が緩む自分もいれば、過去の痛い目を思い出してどこか冷静に見ている自分もいて、あたしは未だにかしこまった口調のままだった。



「じゃあ、また」

「ありがとうございました」



 黒いセダンがコンビニの駐車場から大通りに出るまで見送って、ようやくアパートへ向かう。

その先に、見覚えのある後ろ姿がコンビニの袋を提げて歩いていた。


あれから2か月近く経ってさすがに真冬にロングTシャツ1枚は寒いと自覚したのか、カーキ色のジャケットを羽織っている。

相変わらず少し歩くスピードを緩めたり立ち止まったりして上を見ている。

驚かせるつもりでほろ酔い状態のまま後を追った。



 積もった雪が車のタイヤで押し固められてスケートリンクのように光っている。

むやみに走ると転びそうになると慎重に歩いていたらなかなか追いつけなかった。

結局アパートに差し掛かって、やっと声が届くくらいの距離になった。

そのまま帰ると思ったら、平野君は錆びた鉄階段を昇らずにそのままアパートを通り過ぎてしまった。



「平野君!」



 こんな夜にどこへ行くのか。

あたしの声に振り向いた平野君の目が、驚いたように大きくなっている。



「……こんばんは」

「どうしたの、家、通り過ぎてるけど」


「あぁ」と笑う平野君だったけど、足は止まったまま動かない。



「散歩です。ちょっと、この先、行ったことないなぁって思って」

「こんな時間に? 危ないよ」

「お姉さんも外出てるじゃないですか」

「でもあたしと違って君はまだ未成年だから、補導されたら大変」



 指摘を受けて、誤魔化すように隣に並ぶ。会うたびに元気がなくなっている気がする。



「高校卒業しても補導対象なんですか」

「や、知らないけど」

「お姉さん、酒飲んでますか?」

「うん、少しね。もしかして酒臭い?」

「ううん、でも美味しそうな匂いする」



 アパートを通り過ぎた先は、戸建てが並ぶ住宅街だった。

駅とは逆方向のせいで、心もとない明るさの街灯がポツポツと等間隔に並んでいる。

まだ道路が雪で真っ白なおかげで街灯が反射して明るく見えるけど、これがアスファルト剥き出しだったら暗くて夜に歩くのは怖い。



「また空見てたね」

「うん。あれ、お姉さんいつから後ろにいました?」

「コンビニの辺り」

「コンビニにいたんですか? 気づかなかった」

「ううん、友達とご飯食べてて帰りにコンビニの駐車場まで送ってもらってただけ。中には入ってないよ」



 平野君は興味がなさそうに、「そうなんですか」と言ってどんどん先を歩いていく。

行ったことがないと言いながら、歩く速度は目的地に向かっているかのように迷いがなくて早い。



 だんだんと明かりのついた民家の数も少なくなって街灯を頼りに歩く。

この先を更に進むと海だったはずだ。平野君はどこまで行くのだろう。



「……お姉さんは、一人暮らしを始めてどれくらいですか?」



 平野君のスピードに合わせて転ばないように歩くことに集中していたら、突然話しかけられた。

少し息が切れているから返事が遅くなる。

息を吐くたびに蒸気機関車のような白い湯気が視界を覆う。



「……え、っと……3年目かな、今年で23だから」

「どれくらいで慣れました?」

「えぇ? ん、わりとすぐかな。さっさと家出たかったし」

「両親と仲悪いんですか?」

「いやぁ、仲悪いっていうか。うちの親ずっと働いてばかりで家にあまり帰って来なくて、中学高校であたしがグレて家に帰らないようになってみたいな。今はちゃんと話してるよ」

「それはよかった」



 あたしの心配をしているのか、満足そうに平野君が笑った。



「平野君もそんな感じ?」

「ん?」

「この前、母親じゃないって言ってたから」



 歩くスピードが遅くなる。今度は少し悲しそうな目で笑った。


「ーーあぁ。本当に母親じゃないんですよ。俺は施設で育ってて、あの人はそこの職員だから」

「……え」



 絶句する。そんな人が近くにいるなんて思ってもみなかった。


「高校卒業までは施設にいられるんだけど、俺はもう卒業だから出なくちゃいけなくて。今のところに引っ越してきました」

「……大変?」

「ううん、どうでしょう。昔よりは全然」



 そう言いながら今度はゆっくりと歩き出す。

隣にぴったりくっつきながら、誰も通らない道の先を見ていたら、か細い声が聞こえた。



「ーーでもちょっと、生きるのがしんどい」



 独り言かと思うほど小さい声だった。

平野君はうつむいたまま歩いている。

聞こえない振りをしたほうが良かったのかと思ったけど、横顔を見てしまったせいで後戻りができない。



「……いつでも頼っていいよ、隣なんだから」



 なにも言わずに口角だけを上げるその顔を見て、頼ってくることはないんだろうなと思った。

この子は方法がわからないのに、一人で生きていこうとしていた。







 ときどき心が不安定になると、母親のことを夢に見る。

舞台はいつも前に家族3人で住んでいた部屋で。

そこが夕日に照らされていて、真っ赤で怖かった。

母親が出ていったときと光景が似ているけど違う。

リュックが置いてあった場所に布団が一組だけ敷いてあって、母親がそこに座って化粧をしている。



「友達が来るから、外で遊んでいてね。後で迎えに行くからね」



 布団しかない部屋に響く、上機嫌な母親の声。

何度も見ているから、これが夢だと知っているのに。




 母親がいなくなったのは、あたしのせいだ。

父はなにも言わないけど、きっとあたしのせいなんだと思う。

だって家を出ていく前の日の夜、母親がそう言っていた。



あたしが、家に出入りしている男のことを父に言わなければ。
父が夜に仕事をしているとき、いつも一人で留守番しているなんて言わなければ。

きっと『家族』という入れ物は壊れてなかった。





 ーー最悪だ。


 動悸がおさまらない。

体を起こして周りを見渡す。狭いワンルームに押し込まれた3年分の荷物。大丈夫、ここはあたしの部屋だ。
あたしだけが住んでる、あたしの城。


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